『揖夜神社』意宇六社 6/6
島根県最後の目的地「意宇六社 揖夜神社」に向かいます。
眞名井神社から鎮座地の東出雲町揖屋まで東に約7㌔、長閑な郊外から市街地に入り、東出雲IC付近から出雲郷東の信号にかけて、ICから降りた車と一般道を走る車が合流して渋滞し、信号の右折も滞り、捨て左折したらえらく遠回りになり時間を無駄にした。
揖夜神社社頭に到着。
県道191号線の南に接する社頭は、石の明神鳥居、左に手水舎があり、駐車場は写真左にあります。
意宇六社巡りもここ揖夜神社で終わりを迎えます。
社頭の解説。
「奈良時代に中央政権が編纂した『日本書紀』の斉明天皇五年(659)に、「この年、出雲の国造に命せて、厳神の宮を修めしむ。
狐、於友郡(意宇郡)の役丁(公用の労役に使われた成年男子)の所執れる葛の末を喰い断り、而して去ぬ。
また、狗(犬)、死人の手腎(腕)を言屋社に喰い置けり。
言屋、此を伊浮琊(いふや)といふ。
天子の崩りまさむ兆しなり。」と記されている。
この報を受けた天皇は恐れ畏み、出雲大神の神慮を慰めなければならぬと、神殿の建造を急がせたと伝わっています。
古くから、揖夜神社が黄泉の国に縁の深い社として、中央でも重視されていたことが窺えます。」
意宇六社ひとつ揖夜神社は延喜式には「揖夜神社」、出雲国風土記には意宇郡内「伊布夜社」として記される古社で、祭神は伊邪那美命が祀られています。
鎮座地の東方の揖屋町平賀には黄泉国で変わり果てた伊邪那美命に追われた伊邪那岐命が、現世に逃げ帰った、現世と黄泉の境をなす「出雲国之伊賦夜坂也」と伝わる場所があり、この案内にもそちらへの道筋が紹介されています。
県道沿いに司馬遼太郎が揖夜神社を訪れ、街道をゆくの中で記載した内容が掲げられています。
「六社さんと呼ばれる出雲国意宇郡(現松江市の一部)にある。
国造家ゆかりの六社神社の一社として、崇敬されている揖夜神社ですが、古くは『古事記』『日本書紀』や『出雲風土記』に記述があり、少なくとも平安朝以前には広く知られていた由緒ある古社であります。
その古い神社としての佇まいについて、嘗て作家の司馬遼太郎氏が当社を訪れ、自著の『街道をゆく』の中に以下の様に記載されています。
『どうやらそのあたりは古くは揖屋(揖夜、言夜)といった界隈のようだった。
イフヤという地名は、いったい何語の、どういう意味なのであろう。
車をとめた場所が、たまたま揖夜神社という神社の鳥居の前だった。
戦前の社格は県社だが、鳥居をくぐって広い境内に入ってみると、いかにも出雲の神社らしく社殿そのたがひどく立派で、大きなしめなわの姿なども他地方の神社を見なれた目からするとただごとでなく、ぜんたいに出雲寂びている。
境内のすみに、林とまではゆかなくても樹木のまばらの一角があって、湿った黒い絹のような木下闇(このしたやみ)をつくっている。
その淡い光の中に祭神もホコラも個性ありげな摂社や末社がならんでいて、その一つ一つに出雲の何事かがにおっている。
それらの中に「荒神社」という標柱の出た石のホコラがあった。
荒神社(こうじんじゃ)ではなく荒神社(あらじんじゃ)。
とふりがなが振られているのが、おもしろかった。
アラという呼称は日本の古い姓氏にも多い。
安良という文字をあてたりする。
太田亮博士は荒氏は「任那(みまな)帰化族なるべし」などと推量されているが、おそらく南朝鮮の伽耶(かや)地方を故郷とする氏族なのであろう。
古代、朝鮮半島全体もしくは一部を、カラ(韓)、カヤ(伽耶)、アヤ(漢)、アラなどと呼んだ。
とすればこの「荒神社」も、韓神をまつるホコラなのかもしれず、すくなくともそんな想像を刺激してくれる。
当神社の佇まいについては司馬遼太郎氏が訪問された、四十年前と変わりありません。」
社頭全景。
石造の明神鳥居と両脇に石燈籠があり、左に手水舎がある。
天保六年(1835)寄進の石灯籠は、左の石灯籠の竿から上が載っていませんが、亀の台座(亀趺)を持つもので、右の燈籠の亀趺は一部欠損していますが、竿には龍が彫られるなど手が込んでいます。
手水舎の先の狛犬は、寛政7年(1795)の寄進で、尾の形はピンと跳ね上げたものではなく、丸く纏めてデザインされています。
参拝当日の社殿全体は遷宮に向けて改修中で、写真の随神門も改修中で外観のみとなる。
随神門前の狛犬は天保15年(1845)に寄進されたもので、出雲ではお馴染みの姿。
狛犬の脇の由緒。
「特別神社 揖夜神社
祭神 伊弉冉命、大巳貴命、少彦名命、事代主命。
本殿 大社造(御神座は出雲大社と反対向に御鎮座)
境内社 韓国伊太氏神社、三穂津姫神社
御鎮座についての詳細は不明ですが、古事記神代巻には「伊賦夜坂」について記述があり、 日本書紀齋明天皇五年の条に「言屋社」、出雲国風土記 に「伊布夜社」、延喜式神名帳に「揖夜神社」の記述があり、平安朝以前から知られる古社。
古より朝廷の崇敬が篤く、「三代実録」には清和天皇の貞観13年に「 正五位下」の御神階が授けられた記録がある。
武将の崇敬も篤く、大内氏、尼子氏、毛利氏、堀尾氏、京極氏、松平氏がそれぞれ寄進や社殿の修造を行っています。
また、社殿の営繕は松江藩作事方で行われ、御遷宮には藩主の代参がありました。
當社は出雲国造との関係が深い「意宇六社」の一であり、御遷宮には今でも出雲国造の御奉仕があります。」
現在令和7年の正遷座に向け、令和5~令和6年は改修工事が行われており、神門や本殿には近づくことは出来ません。
社殿は標高100㍍程の山の西嶺に鎮座し、手前の拝殿とその右側の仮殿以外は立ち入り禁止。
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2024年5月23.24.25日と出雲の國を訪れ、一泊は車中泊、二泊目は玉造温泉に宿泊し出雲大社、意宇六社等を巡って来ました
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