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ユダヤ人絶滅の予算は計上されていなかった説、の出所。ラウル・ヒルバーグはどう語っていたのか?

日本のホロコースト否定の第一人者であるらしい西岡昌紀氏が、旧Twitter上で私をブロックして久しいところですが、その西岡昌紀氏が日本で広めたらしい否定論諸説の中に、

  • 当時のドイツは、『ユダヤ人絶滅』の為の予算を計上していなかった事が判明しています

というものがあります。この文章自体は、山崎カヲル氏によるこちらの記述からコピペしましたが、もちろんこれは西岡昌紀氏の独自の説ではありません(西岡氏独自の説など聞いたこともありません)。誰が言い始めたかまでは存じませんが、欧米の歴史修正主義者であることは確かです。しかし調べているとどうやら、ホロコースト史家のラウル・ヒルバーグがそう述べたから、ヒルバーグの揚げ足取りのような形で修正主義者が「ユダヤ人絶滅の計画も予算もなかっただって? そんなバカな話があるか(爆笑)」のように言い出したものらしいです。

もちろんですが、修正主義者はナチスドイツがユダヤ人絶滅を実行したこと自体を否定しているので、「予算や計画はあったはずだ!」と反論しているのではありません。そうではなく、正史の主張があまりにも馬鹿馬鹿しすぎると嘲笑してそんなことを言っているのです。つまり、予算や計画がないならば、ユダヤ人絶滅などなかったと結論しなければおかしいだろ!と、修正主義者は正史側に文句を言いたいのだと考えられます。

ですから、西岡の言い分はちょっとズレているのです。上の文章で言及されていない「計画」はともかく、欧米の修正主義者はユダヤ人絶滅と銘打った(あるいはカモフラージュ的に別の言葉で言い表された)明確な予算措置がなかったことが、ユダヤ人絶滅がなかった証拠、と主張したかったのではなく、そんなバカな話をどうやって信じろというのか? と言っているのです。事実、フォーリソンはこんなことを言っています。

10)1961年、正統派歴史家ナンバーワンのユダヤ人ラウル・ヒルバーグは、その主要著作『ヨーロッパ・ユダヤ人の破壊』の初版を出版し、そして1985年、大幅な改訂と修正を加えた第2版を出版した。両者の間にはかなりの距離があり、その間に修正主義者たちが次々と勝利を収めたことでしか説明できない。初版で著者は、「ヨーロッパのユダヤ人の滅亡」はヒトラーによる2回連続の命令によって始まったと堂々と断言していた。彼はその日付を特定することも、その文言を再現することもしなかった。そして、その破壊の政治的、行政的、官僚的プロセスを詳細に説明すると公言した; たとえば、彼は、アウシュヴィッツでは、ユダヤ人の絶滅は、衣服の消毒と人間の絶滅の両方を担当する事務所によって組織されていたと書いている(The Destruction of the European Jews, 1961, republished in 1979 by Quadrangle Books, Chicago, p. 177, 570)。しかし、1983年になって、ヒルバーグは突然、その説明を完全に反故にして、「ヨーロッパ・ユダヤ人の破壊」という事業は、結局のところ、計画も、組織化も、中央集権化も、プロジェクトも、予算もなく、「信じられないような心の会合、遠く離れた官僚機構によるコンセンサス・マインドの読解」(『ニューズデイ』ニューヨーク、1983年2月23日、p.II/3)のおかげで行われたと述べた。彼は1985年1月16日にトロントで開かれた第一回ツンデル裁判で、宣誓の上でこの説明を確認することになる(逐語録、P.848); 彼はその後すぐに、上記の著作の大幅な改訂版(ニューヨーク、Holmes & Meier, 1985, p. 53, 55, 62)において、別の言葉を用いてあらためてこのことを確認することになる。つい最近の2006年10月、彼は『ル・モンド』紙のインタビューに答え、再びそれを認めた:「事前に定められた指導計画はなかった。決断の問題に関しては、解決できない部分もある:ヒトラーが署名した命令は見つかっていないが、そのような文書が存在しなかったからだろう。私は、官僚組織はある種の潜在的な構造を通して動いていたと確信している:それぞれの決断が次の決断を呼び、また次の決断を呼び......という具合に、たとえ次のステップを正確に予測することが不可能であったとしても」(ル・モンド・デ・リーブル、2006年10月20日、12ページ)。

コメント:ユダヤ人大虐殺の第一人者である歴史家は、ある時点から、自分があまりにも無力であることに気づき、突然、最初の見解を破棄し、集団殺人という巨大な事業が、あたかも聖霊の働きのようなものによって遂行されたかのように説明するようになった。それ以来、彼は官僚機構内での「心のふれあい」を呼び起こし、この出会いを「信じられない」と言っている。もしそれが「信じられない」ものであるなら、なぜ信じられなければならないのか? 信じられないことを信じなければならないのか? 彼はまた「マインド・リーディング」を持ち出し、それが「コンセンサス」によって行われたと述べているが、これは超自然的なものへの信仰に根ざした純粋な知的推測の問題である。特に巨大な官僚機構の中で、しかも第三帝国の官僚機構の中で、どうしてそのような現象を信じることができるのだろうか? R.ヒルバーグを手本に、1980年代から1990年代にかけて、他の公的な歴史家たちが歴史を放棄し、形而上学や専門用語に没頭していったことは注目に値する。彼らは「意図主義」であるべきか「機能主義」であるべきか、という点について自問した:ユダヤ人絶滅は、(まだ証明されていない)「意図」に従って、(まだ見つかっていない)協調的な計画に基づいて行われたと考えるべきなのか、それともその代わりに、形式的な意図も計画もなく、即興的に自然発生的に行われたと考えるべきなのか? このような論争がまことしやかに喧伝されるのは、証拠や実際の資料を提示することができず、空虚な理論展開に終始している歴史家たちの混乱ぶりを物語っている。結局のところ、一方の側、つまり「意図主義者」は私たちにこう言うのだ:「そこには必ず意図と計画があったはずで、それはまだ見つかっていないが、いつか本当に見つかるだろう」一方、他は肯定している:「意図や計画の証拠を探しに行く必要はない。なぜなら、すべては意図も計画もなく、痕跡も残さずに起こったからだ;なぜなら、そのような痕跡は存在しなかったからだ。」

https://web.archive.org/web/20111204033800/http://www.zundelsite.org/zundel_persecuted/dec13-06.html

これがどういうわけか、西岡(だけではないのですが)らによると、絶滅の予算がなかったことがユダヤ人絶滅がなかった証拠のように言われてしまっているのです。

ともかく、この計画や予算がなかった説の出所は、ラウル・ヒルバーグの研究にあったのです。修正主義者たちは、正史派であるヒルバーグのその主張を否定論に使うために悪用したとも言えるでしょう。

しかし、ヒルバーグは私の見るところ(と言っても、その『ヨートッパ・ユダヤ人の絶滅』は所有しておらず、近所の図書館に読みに行ってるだけです)、非常に真面目な研究者のようでして、ヒルバーグは単にユダヤ人絶滅がどのようにして起きたのかについて、仮説を立ててその仮説を検証し、その仮説が合ってなければ、また別の仮説を立てて解釈を行なっているに過ぎません。例えば、最初は予算や計画があると仮説していたが、それらがどうやらないようなので、官僚機構的な仕組みがユダヤ人絶滅を遂行していった(ちょっと乱暴すぎる簡略化ですが)のだと、そのように読み取っただけなのです。これはあらゆる科学的思考の正しいやり方だと思います。

では、実際ラウル・ヒルバーグはどのようにユダヤ人絶滅の構造的説明を行なっているのでしょうか? 今回は、ちょっと長いですが、『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅(上巻)』(柏書房、1997)から、それが述べられている第三章の全文を以下に引用して終わります。テキスト文字列のみでの引用で、一部表を除き、表は引用していません。また、強調は私によるものです。

本来であれば、『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』を全部読まないと、ヒルバーグの主張を理解したことにはならないとは思いますが、この短い章だけでも、彼がどのようにユダヤ人絶滅のシステムを考えていたのかは、朧げにでも分かるのではないかと思います。


p.41

第3章絶滅の構造

p.42

 ユダヤ人の絶滅は一見したところ不可分の、単一にまとまった出来事という外観をもっている。だが、子細に観察するならば、順を追った歩みの過程であることが明らかとなる。その歩みは広範な官僚機構における無数の政策決定者たちが主導したものである。それゆえに、その大変動の根本的な特徴はその構造である。すなわち発展の論理、決定に至るメカニズム、日々の行政的活動にかかわる機構などである。

 絶滅過程は一定のパターンとして展開した。だが、それは基本的な計画があって、その結果として生じたものではない。一九三三年には官僚のだれもが一九三八年にどんな方策がとられるか予想できなかったし、四二年の諸決定を三八年に予言することもできなかった。絶滅過程は一歩一歩と重ねられた営みであり、行政官たちは一歩以上先を考えることはほとんどできなかった。

 絶滅過程の歩みは以下のような順で進行した。まず「ユダヤ人」という概念が確定され、ついで財産収用が開始され、そしてユダヤ人のゲットー収容、最後にヨーロッパ・ユダヤ人の抹殺が決定された。移動殺戮部隊がロシアに派遣され、その他のところでは犠牲者たちは絶滅収容所へ移送された。したがって、時間的展開で示すと左図のようになる。

定義

財産収容

強制収容
↓              ↓
占領下ソ連での移動殺戮作戦  枢軸国支配下ヨーロッパでの移送と殺戮センター作戦

 「絶滅過程」という概念には前章で論じたナチ党の諸活動をふくんでいない。シャハトとフリックはこれらの活動を「個別行動」と呼んだ。これは行政的な意味をなんらもっておらず、なんらの行政的パターンにもはまらず、なんらの行政的目的をも追求するものではなく、行政活動の一階梯をなすものでもない。これが、一九三八年以降、こうした党活動がドイツにおいては完全に消失し、占領地域でまれにしか行われなかった理由である。

 ユダヤ人の定義という問題は一九三八年の血なまぐさい騒乱と比べて、かなり害意の少ない措置に見える。しかし、その意義は大きい。なぜなら犠牲者の定義はさらなる行為に不可欠であったからである。その措置自体はだれをも害するものではなかったが、それは行政的持続性をもつものであった。この点がたんなる虐殺と絶滅過程との主要な相違である。虐殺(ポグロム)は財産の一定の損失と人的被害をもたらしたが、それがすべてであり、それ以上のことはなかった。他方、絶滅過程にお

p.43

ける措置はそれだけで孤在しているものではなかった。それはかならずしもダメージをもたらすことはなかったが、しかしつねに因果関係のなかにあった。過程の一歩はつぎの一歩の種子を宿していた。

 絶滅過程は二つの方策によって支えられている。すなわち移住(一九三三四〇年)と抹殺(一九四一四五年)である。こうした政策の変化にもかかわらず、絶滅過程の行政的連続性は中断されていない。一九四〇年以前に導入された三つの措置(定義、財産収用、強制収容)は移住への誘因となったばかりでなく、殺戮作戦への石として役立ったが、この事実のなかに、行政的連続性の理由を見ることができる。

定義→移住

財産収容→移住

強制収容→移住

抹殺

 抹殺へいたる道は古くから存在する道を通じてまっすぐに延びていた。
われわれはますます徹底したものとなっていく行政的発展を扱っている。こうした過程において多くの官僚は、古くからの法的手続き上の原則や条件における障害をした。彼らがのぞんだことは無約的な行動であった。それゆえは、形式的な書類による命が徐々に手続きとして廃棄されていく雰囲気を醸成していった。公然たる法策定から秘密裏の操作へという力点の移動は、以下のような連続系として表現できる。

諸法律

施行命令

省あるいは地方の命令や条例

社会にたいする法律や命令の公告

必要不可欠な場合の地方官吏による告示

非公表の文書による命令

下僚にたいする非公表の非限定的権限付与

口頭による命令と権限付与

指示・説明を必要としないで決定をなしうる官吏の基本的了解

p.44

 結局、ユダヤ人の絶滅は法律や命令の産物というよりも、精神とか、共通理解とか、一致や同調の問題であった。

 この全てに加担したのはだれなのか。この事業のためにどん機構が作動したのか絶滅機構はさまざまなものの集合体であった――全作業を担った官庁はなかった。ある特定の機関が特定の措置の実行過程における指導的役割を果たしたとして全過程を方向づけ調整した機関は存在しなかった。絶滅のエンジンは、まとまりのない、分岐した、とりわけ分散的な機関であっても、それが政府機構における重要な結節点とはかぎらない。要するに絶滅機構について語る場合、ドイツ政府にその特殊な役割をゆだねざるをえない。それでは、その政府はどのように組織されていただろうか。その構造はどのように描いたらよいのであろうか。

 まず、この装置がどんなに巨大なものにならざるをえなかったか考えてほしい。一九三三年にユダヤ人はほとんど完全に解放されており、ドイツ社会に統合されていた。それゆえにユダヤ人をドイツ人から分離することはきわめて複雑な過程であった。なんらかのかたちで反ユダヤ政策に関心をもたなかったような機関や実務組織はほとんど存在しなかった。「ドイツ政府」と呼びうるような公的・私的機関を、また「絶滅機構」と呼びうる実務組織を列挙するならば、それは反ユダヤ政策になんらかの意味で関心をもっていた機関や組織であった。

 とはいえ「ドイツ政府」という呼称と「絶滅機構」という呼称には異なった役割が課されており、「政府」はもっと包括的なタームであり、社会における行政諸機能の総体を意味しており、「絶滅」はきわめて特殊な行政活動のひとつにすぎない。政府部内で強力な機関でありえたものでも、絶滅機構における決定的部分とはかぎらないし、逆に絶滅機構において中心的機関であっても、それが政府機構における重要な結節点とはかぎらない。要するに絶滅機構について語る場合、ドイツ政府にその特殊な役割をゆだねざるをえない。それでは、その政府はどのように組織されていただろうか。その構造はどのように描いたらよいのであろうか。

 ドイツの行政機構は総統(ヒトラー)と四つの別種のヒエラルヒー的集団、すなわち政府官僚機構、軍、工業・財政機構、党からなっていた。この詳細は表3~1〜5に示しておいた。

 官僚と軍は数世紀にわたってドイツ国家の二つの支柱と考えられてきた。それらは一七世紀中頃に起源をもっており、その発展はたんに行政機構としてではなく、それ自体の伝統・価値・政策をもつ階層秩序としての発展であり、ある意味で近代ドイツ国家の発展と同意語であり、同一視しうるものである。産業機構は、一九世紀になって初めて官僚や軍に匹敵する政治的要因となった。党はナチ政府において最も新しい階層的制度であり、一九三三年にやっと一〇歳を迎えたのであった。しか党はすでに壮大な官僚機構をもち、その他の階層制度と競合し、若干の領域ではそれらの組織の特権を脅かすほどであった。これら四つの官僚制は歴史的起源を異にするにもかかわらず、また利害関係を異にするにもかかわらず、すべてユダヤ人の絶滅という一点では一致しえた。これらの共同行動は実際、完璧なものであったので、それらがひとつの絶滅機構として融合したことを指摘できる。

 それぞれの階層制度の独自の貢献はその権限に即しておおま

p.45〜48
<表は省略>

p.49
<表は省略>

かには測定されうる。政府官僚制は絶滅過程の初期段階における反ユダヤ法制定の主要機関であった。それは、「ユダヤ人」の定義を規定した法令や規制を作成したが、このユダヤ人概念がユダヤ人財産の収用を準備し、ユダヤ人社会のゲットー化に影響をあたえた。こうして政府官僚は全絶滅過程の方針を定め、方向付けをした。このことはユダヤ人絶滅における政府官僚の最も重要な機能であった。さらに、それは後年のもっと厳しい反ユダヤ政策における驚くべき役割も演じた。外務省は絶滅収容所へのユダヤ人の移送に関して同盟諸国と協定を結び、ドイツの鉄道は移送の責任を受け持ち、警察は親衛隊と完全に融合しつつ、絶滅活動に精力的にたずさわった。

 軍は戦争勃発後、東欧・西欧における広大な領域を統制することを通じて、絶滅過程に引き込まれていった。軍の部隊や機関は特別移動部隊によるユダヤ人の殺害や絶滅収容所へのユダヤ人の移送などをふくむあらゆる方策に関与しなければならなかった。

p.50

工業・財政機構は財産収用や強制労働体制に関して、さらにはガス殺害に関しても重要な役割を果たした。

 党は、ドイツ人・ユダヤ人関係のデリケートな諸問題(二分の一ユダヤ人、混合婚をしたユダヤ人など)をふくむすべての問題にかかわり、激烈な行動を全般的に推進した。党の軍事部門であった親衛隊(内相下の警察と融合)が最も激烈な行動、すなわち殺戮作戦を実行したのも偶然ではない。

 これら四つの階層制度は絶滅過程に関する行政的措置だけでなく、それぞれの組織的特性を帯びた貢献をした。行政官僚はその的確な計画性と官僚的徹底性を、その他の組織に浸透させた。軍からは、絶滅機構はその軍事的な厳格さ・規律・無情さを取り入れた。工業界の影響は計算合理性・節約・再利用の強調の点で、また絶滅収容所における工場のような能率性の点で甚大なものを感じさせる。最後に党は全絶滅機構に、「理想主義」「使命感」「歴史創造の意識」などを付与した。こうして、これら四つの官僚制は行動においてだけでなく、思想においても合体していた。

 以上に述べたところからユダヤ人の絶滅は、広範な行政機構の仕事であったといえる。これらの装置は交互にそれぞれの歩みを進めた。諸決定の推進と実行はたいていこの装置の手中にあった。ヨーロッパ・ユダヤ人を絶滅するために、特定の機関が創出されることはなかったし、特定の予算も割かれなかった。それぞれの組織は絶滅過程においてそれぞれの役割を果たし、それぞれの課題を実行する方法を発見せねばならなかった。

<引用終わり>


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