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『森永ミルクキャラメル』

数年前のある日の事、診療所の医事に用事があり向かうと女子職員の机の上に、数個の森永キャラメルの箱があるのが、目に付いた。職員に聞くとある外来患者さんが、いつも帰りに食べるようにと置いて帰るのだそう。キャラメルの一つを貰い、粒を口に入れると、とろけるように甘い懐かしい味が滲んできた。そして、同時に遠い昔の幼い頃の記憶が浮かんできたのだった。
 私には、7つ違いの兄がいる。私が小学3年生の頃だろうか、兄は既に中学生で、大きな学生帽を被り、新調した学生服を着て、しっかりした顔をしていた。ある日、兄に誘われて一緒に松山に行くことになった。父の弟が結婚して新所帯を持った頃で、そこに野菜や果物の袋を届けるように頼まれたのだ。松山に出る事も少ない時代であり、私は物珍しさもあり、喜んで付いて行った。伊予鉄道横河原線の見奈良駅まで、てくてくと歩き、そこで汽車に乗った。当時の汽車は、小さなディーゼルの坊ちゃん列車だったが、それでも、白い蒸気を押し出し、大きな車輪を回して進む蒸気機関車の力強い姿を見るのは、嬉しかった。
 立花駅で下車して、しばらく兄の後を付いて歩くと、叔父の下宿に着いた。二階へ上がる狭い階段を登ると二間の部屋があり、そこに叔父さん夫婦が暮らしていた。新婚のエプロン姿の叔母さんは、ポチャッとした、色白の可愛い女の人だった。『よう、来てくれたね。』と二人に労いの言葉を掛けてくれ、お茶菓子を出してくれた。叔父さんは、出窓に座り、ぼそぼそと話をした。窓の向こうには、松山の小さな家並みが見渡せ、はるか遠くには、高いビル群も見えていた。私は、立って、しばらく、その風景を眺めながら、田んぼや山川しか見えない、自分の故郷と比較して感嘆していた。部屋の廊下の隅には、当時はまだ珍しかった石油コンロがあり、そこで煮炊きをしていた、ようだった。
 しばらく雑談していたが、そろそろ、お暇する事になった。私達は挨拶して二階の部屋を降りようとすると叔母さんが、『ちょっと待って。』と言って、天井にぶら下げていた竹籠を下ろし、そこから、何か食べ物を取り出しながら、『帰りに、これを二人でお食べ。』と紙袋に入れてくれた。帰りの汽車の中で、その紙袋を開けてみると、それは、表に『滋養強壮』『ミルクキャラメル』と書かれた珍しい森永キャラメルの箱だった。二人でキャラメルを幾つも口に入れると初めて食べる、まろやかなミルクキャラメルの味が口中に広がった。森永キャラメルは、まだ田舎の小売店には、売られていなかった。その味は、新鮮な都会の味がして、嬉しくて、何個も何個も紙をむいで、口にほおばった。
 家に帰ると、自分達の手柄のようにして、他の兄弟にも分け与えて食べたのは、勿論である。それから、私は、兄が松山に行くと言うといそいそと付いて行った。新婚の叔母さんは、買いだめをしていたのか、帰り際には、必ず、森永キャラメルを竹籠から出してくれるのだった。
 森永キャラメルをいつも置いて帰る外来患者さんは、人の良い、朗らかな叔父さんだった。キャラメルの味が忘れられなくて、いつもスーパーで買っているのだろうと想像した。恐らく、終戦後の砂糖も乏しいような時代の森永キャラメルは、贅沢なおやつであったに、違いない。給料を貰うとその足でキャラメルを買って帰り、子供達を喜ばせていたのだろうか。あのキャラメルが未だに、そのままの体裁のまま、売られているのに、驚いた。叔父さんも、密かな楽しみに、キャラメルを買い、職員にも分け与えてくれたのだろうが、最近の若者が、関心が薄いのは、机にそのままにしているのを見ればわかる。あの叔父さんも最後は、肺癌や認知症になり、亡くなられた。診察室では、『どうちゃない。どうちゃない。』を繰り返すばかりだった、あの方の笑顔を再び思い浮かべたのだった。
 


 


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