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わかり合うなどと言うことはそもそも不可能

充分な納得も説明もなしに、自分が、誰かの言いなりに動かされることは…誰にとっても耐えがたい苦痛であると思うのです
だから自分も、他の誰かを言いなりに動かそうとしてはいけないし、自分がされたくないことは、他の誰かにもしてはならない。ということなのです。
本当の意味で人の気持ちを察して思いやると言うことは…とても難しいことです。

最低限《自分以外の誰かを自分の意図で動かそうとしてはならない》という理解があれば充分ではないかと思います。
親なのだから、子どものために動くのが当たり前。子どもなのだから、親のために動くのが当たり前。
恋人だから、夫婦だから、家族だから、親友だから。
相手が自分のために、自分が相手のために動くのは当たり前なのだ。こう考えること自体がすでにして壮大な幻想であると私は考えています。
どのような絆や縁で結ばれていようと、脳と心が別物ならば他人同士である。
人は他人を理解することは出来ない。
出来るのは理解したつもりになって、理解したと思い込む事だけなのです。
本質的に理解し合えない存在だからこそ、どこかの誰かが、困っていたり悩んでいたりする自分のことを想像し、できる限りの手を差し伸べて、自分のことを思いやってくれる事に対して深い感謝と恩義を感じこともできるのです。

そして自分も、困っていたり悩んでいたりする誰かに、手を差し伸べてみようと思います。
自分がして欲しいことは、他人にもそれを行う。
全ての真心の基本ではないでしょうか。
人間同士、理解し合えない、共感できないからこそ、そこにまた絆や縁が生まれる余地が生まれます。
誤解や摩擦と、愛情や誠意とは紙一重だと思います。
至極単純に考えると…。
相手に対して向ける自分の心のベクトルがプラスとマイナス、どっちを向いているか。ただそれだけの差でしかないのです。
わかり合えないから、触れ合って知ろうとするのか。
わかり合えないから、あきらめて接触を断つのか。
ただ二つの選択肢があるだけなのですね。

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