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怠惰のススメ

身体障害者…歩行困難者と言っても、いろんな人がいます。
よろけたりすることはあっても、何とか歩行が可能な人や、
立ったり歩いたりはできないけれど、腕や足で車いすを漕げば移動可能な人。
自力ではほとんど動けず、横になったままの人まで様々です。
いずれの場合でも、自分の障害をどのように認識し、日常の困難といかに向き合うかはその人次第。
個人個人の選択と決定に、いいも悪いもありません。ただ本人だけが、自分の決めたことに納得していれば良いわけであり、そこに他人が口を挟む余地はありません。
ただ…傍からとやかく言わぬにしても、私が見ていて…
『この人、しんどい生き方してるなあ』
と感じる人はいるものです。
それでも口も出せなきゃ手も出せないので、気が付いていないフリをしつつ、静かに見ているしかないのですが…
では…どんな人が
『辛そうに見える』
のか…というと…
『歩ける』
ということや
『動ける』ということに、ある種の異様なこだわりがある人たちです。
たとえば、
『自分は、足が怠くて歩くのがしんどくても、ずっと辛さを我慢してきた。今さら車いすには乗りたくない』
だとか、
『自分はずっと腕を鍛えて車いすを漕いできたのだから、電動車いすに乗ることで怠けてしまうのがイヤだ』
という人たちです。
『自力で成し遂げる』
ということにこだわりと生きがいを感じるあまりに、より便利な道具、便利な機械に頼ることを是としない人々です。
自分の足で歩ける。自分の腕で車いすを漕げるからと言ったところで、
そもそも医学的に障害者である、とされるからには、健常の人たちのようにスイスイと、どこでも動けるわけではありませんから…
どうしても生活の上でどこかに無理は来ます。
若い時には、それなりにがんばれるにしても、環境の変化や時間の経過で…だんだんとがんばれなくなります。
それに、外出の時に一番重要なのは…
『どれだけがんばって歩いたか』
とか
『どれだけがんばって車いすを漕いだか』
というよりも
『出かけた先での時間を、どう有意義に過ごすのか』
ということであるはずだと思うのです。
障害のある人が
『自分の足で歩く』
『車いすを漕ぎ続ける』
というのは…
運動すること自体を、スポーツやレジャーとして楽しむ。
あるいは、健康のためのリハビリテーション、トレーニングやエクササイズでもない限り…あまり意味のない事だと思うのです。
せっかく目的地に辿りついても…行った先で精魂尽きてバテバテになったのでは…それが仕事にしろ、遊びにしろ、出かけた意味が半減します。
きちんと付き添いの支援者を付ける。ちゃんと車いすに乗る。
利便性の高い電動車いすに乗るなど…より便利な道具を使い、支援を受けることで…
身体が楽になるだけでなく、何より気持ちの余裕が生まれます。
長い間、日本の福祉制度では…
『歩ける人は歩きましょう』『なるべく自力で車いすを漕ぐことをオススメします』
『なるべく、人の手を借りずに生活しましょう』
というようなことが言われがちでした。
しかし私は、歩行機能がある人が、電動車いすに乗っても構わないと思うし、
手動車いすを漕げる体力のある人が、電動車いすに乗ってもいいと思っています。
人の身体は消耗品です。無理をさせれば壊れるし、長く使えばガタもきます。
『将来を豊かに過ごすために、今できることを、あえてやらない』
『胸を張って怠ける』
という選択だって、充分に、あって良いと思うのです。
なんなら、福祉制度がどうであれ…全く身体に障害のない人が、手動や電動の車いすに乗っていたっていいと…個人的には、そう思っています。
その昔…家庭に洗濯機が普及する前までは『着物は手洗いでなければ情は通わぬ』
であるとか言われた時代あるそうです。
また、食器洗浄機が普及しつつある現在でも…
『皿は手洗いでないと、家事の温もりが伝わらない』
という人がいるようです。
手仕事に価値を感じ、特別な思い入れがあるなら、ぜひとも、そのようにするべきです。
そうしたいなら、そうすればいい。
それが正しいと信じて、自分で選んで決めたことなら、日々それを実践すればいいだけです。
しかし、文明と道具がもたらした今日の利便性を否定するなら…
『家族で使う火は、自分で火起こしした方がいい』
『自分たちで使う水は、自分で井戸を掘って組み上げるか川から運んだ方がいい』
というところにまで、時代を遡らなければならなくなります。
災害時や緊急事態ならば、そのように…
『自力で成し遂げる』という古代のスキルも必要になるでしょうが、
そんなサバイバル生活も、長く続けば生活の余裕、心のゆとりが失われていく場合があります。
自力で成し遂げる、達成感を得るというのは悪いことではないけれど
『足で歩く』
ということにこだわれば…
いつか歩けなくなった時に、
『車いすを漕ぐ』
ということにこだわれば…
いつか漕げなくなった時に、
心に重いダメージが来ます。
こだわること、プライドを持つことは生きる張りあいにもなるけれど、強すぎれば害にもなります。
『病んだ自分』『衰えた自分』も…
紛れもなく、慈しみ …労るべき大切な、自分自身であることに違いありません。
その時、その時の自分を、無理なくありのまんま受け止められるようになりたいです。

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