移動の自由はすなわち、心の自由である。という話。
たとえば…重度な身体障害があるお子さんに電動車いすを勧めてみても、まず親御さんが『うちの子には無理』『まだ早い』という判断をしてしまう場合があります。
ただ単に、目的地に移動するだけ、出かけるだけのことであれば…電動車いすでなくとも、その目的は達することになります。また、信頼できる親御さんや支援者の方の送り迎えであれば…安全確実であり…しかもその上、子どもさんにとっても安心で快適です。
しかし、肝心のお子さん自身が受け身なまま、誰かに連れていってもらうだけの移動では…
障害のあるお子さんが『自分の意思で決定して行動する』『間違えながらも、迷い考えながら学ぶ』という点においては、障害のない同年代のお子さんに比して、日常生活における経験値で大きく遅れをとってしまいます。
たとえ、自力で手動車いすを扱えないくらいの、障害の重いお子さんであったとしても…電動車いすのスイッチやジョイスティックなどの操作を通して、身体の使い方を学び…目や耳を使う事による距離感や方向感覚…空間認知を高めることができます。
身体的な障害に加えて、知的な遅れのあるお子さんの場合…『ウチの子は交通ルールが分からない』『危ない』『他の人の迷惑になる』などを理由に電動車いすの導入を諦めてしまう…あるいは初めから考えない親御さんや、支援者さんもいらっしゃいます。
たしかに、外にお出かけをするとなると、自分が動き回るだけでなく、周りの他の通行人の動きを確認したり、車との接触を注意せねばならないなど…難しい判断を迫られます。
電動車いすで路上に出るのも、そんなに容易なことではありません。小さな危険は常に、どこにでもあります。
しかし『やるからには公道をきちんと走らせねばならぬ』『やるからには、今よりさらにレベルの高いことを実現させねばならぬ』というのは…
親御さんや支援者の方が、障害のあるお子さんに対して、無意識、無自覚のうちにかけてしまう、ある種の呪い…呪詛のようである…とも、障害当事者の私には感じられてしまうのです。
障害のあるなしに関わらず、あらゆる子どもさんの、脳と心の発達には、なによりも『経験のない新しいことをチャレンジする』『楽しいと思うことを夢中でやる』というのが一番大事なことであるような気がします。
大人の目から見て、『それが生活の役に立つか』『こんなことをやらせてなんになるか』と、あれこれ考えることは、子どもさんにはあまり意味がありません。
たとえば、重い病で長く生きられないとわかった子どもさんがいるとして、成人して社会に出られない子を学校に通わせるのは無意味なんでしょうか?
たとえば…知的な遅れがあるから、理解ができないからといって、初めから赤ん坊と同じ扱いのまま、なんの知識も与えないのは、その子にとって幸せなことでしょうか?
そして、私のように…労働という形で社会の役に立てる訳でもない人間が、普通に生きようとすることは、世の中の害悪なんでしょうか?
大事なのは本人自身の『やってみたい』という気持ちを大切にして、経験を積む機会を増やし、本人が自分の人生を、納得して生きられるようになること…ではないでしょうか。
生きる上で、何らかの目的や意味を見出すことは大切なことなんでしょう。
しかし、単なる意味や目的だけのために、人は生きるのではありません。
自分が楽しいかどうか、まず自身が幸せであるかどうかのためにも、人は生きているんです。
たとえ、実生活の役には立たずとも、近所の公園で、病院や施設の中で、学校の校舎の中で…
人の目が届く場所で安全に配慮しながら…僅かなりとも障害の重いお子さんが、自分で電動車いすを操作して、移動の自由を手に入れるのは…
それが必ずしも実用的でないとしても…その子の生きる楽しさ、毎日の幸せに繋がることではないかと思います。
どうぞ…大人だけ、障害ない人の目線だけで、障害のあるお子さんの可能性と機会を見逃すことがないように…
障害当事者の大人として、くれぐれもお願いしたいところであります。
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