見出し画像

私の内側にある美術 No.4 浦上玉堂

浦上玉堂(1745年‐1820年)
江戸時代後期の文人画家。水墨画家であるかたわら、音楽家、詩人、書家の顔を併せ持つ。武家の家に生まれたが、50歳のときに脱藩。旅の中で新たな風景や人々と対面し、その景観を一枚の画面の中に新たな造形として落とし込んだ。


「萬籟千畳図」布施美術館蔵

「縦長のフォーマット」「墨の濃淡による光と陰影の表現」「像の重なり」…
こうした日本独自の表現技法が西洋的な遠近法に頼らずとも、空間の奥行きの表現を十分に可能にしている。

日本画のフォーマットは縦長であるにもかかわらず、それに従い安易に事物の高さを表すのではなく、むしろ空間の奥行きを表現している。この独特な表現技法は、「奥の空間」を求めた日本建築とも共鳴しているように思え、個人的に非常に興味深い。建築の世界にも「借景」という言葉があるように、玉堂らの絵画の世界においても遠近の景を接続し、一枚の平面に定着させる、そうした日本に独特な空間表現技法が私の心を打つのである。

「碧山莫雲図」

玉堂によって、紙の上に定着した景の連続体は、ひと続きのシルウエットとして造形され、現実世界の風景とはまた別の視覚を見るものに与えている。

「半空煙雨図」

白と黒の完全なプロポーションが画面の上に及んでいる。山の稜線に型どられた一連のシルウエットはときに彫刻の立面図のようにも見え、その表面に白と黒の複雑な陰影が付着しているかのような錯覚を起こす。


「琴写澗泉図」岡山県立美術館蔵

玉堂は、一枚の平面上で遠景と近景の間の距離を圧縮し、両者を接続しているが、別の見方をすれば、その景と景の重なりに無限の距離を読み取ることもまた可能であるだろう。コーリン・ロウが指摘するように、こうした「虚の透明性」をともなった作品は、実に多様な解釈を誘発するような余白を含んでいるように思える。


「雲蒸寒潭図」

上図のように、画面下部には垂直の線が、画面の上部には水平の線が多く見られる。近くの樹木はその高さが維持され独立した一本の垂直線が画面に現れる一方で、遠くの樹木は、もはや高さは消去され、代わりに周囲の樹木と一体になって、横に展開する水平線として現れる。

玉堂はの平面の上で近景と遠景の距離を圧縮する一方で、画面下部と上部の線のベクトルを強烈に切り替えることで、遠景と近景の間には確かな距離があることを示唆している。この両義的な空間の扱い方こそが、絵画の画面上に「虚の透明性」を呼び起こしているのではないだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?