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私の内側にある美術 No.3 棟方志功

棟方志功(1903-1975)
青森出身の板画家。当初は油絵を描いていたが、25歳頃からゴッホや川上澄生の影響を受け、木版画へ転向。洋画の手法から距離を置き、布置法ーすなわち平面配置のバランスを重視する描写方法によって、仏教的世界感を木版画の上にうつしだした。

また、棟方自身は極度の近視のためにモデルの姿がはっきりと見えず、それゆえにモデルに頼ることなく、自らの想像力にまかせて、仏教精神を描きだしている。

幼少期には、ねぶたや凧に描かれた絵にひどく感動し、その原風景が作品に影響を与えていると自らが語っており、日本や郷土に密着した芸術作品を生涯にわたって制作し続けた。



「聞風の柵」


「釈迦十大弟子 目犍連の柵」


「基督の柵」

図と地の設定によって、モチーフの全体がいくつかの部位に分割されている。そうして生じる白と黒の可逆性が、見るものをさまざまな思惑へといざなう。この画面効果は、ピカソの分析的キュビスムから生じるものとは本質的にまったく異なる。


「善知鳥版画巻 夜訪の柵」


「大和し美し板画巻 大和武尊の柵」


「怒天神の柵」

版画は油絵と違って、直裁的に絵そのもので表現するのではなく、むしろ作者の動作の「痕跡」をもって、画面を構成していくところに本質がある。したがって、観衆は、作者の版木制作に費やす手間の一苦労を否が応でも作品から感じ取ることになるわけである。棟方の場合も例外にもれず、作品を前にすると、彼の板画にかける熱量がまじまじと伝わってくる。作品そのものの実体の上に、棟方が懸けた「気迫の残像」を重ね合わせることで、作品が実体以上の意味を帯び始めるのである。

版画はいつも、画面の上に「ある」のに「ない」。
あるいは「ない」のに「ある」状態である。

それは、版画ゆえの実存の反転である。
クリムトの芸術がそうであるように、作品が「ある」状態のときより、むしろ作品が消えた状態、すなわち「ある」を通り越した「ない」ときの方が、観衆により強烈な印象を与えるように思う。

このアンビバレントな特質こそが、無限に続くイメージの反転を助長し、想像性の増幅に加担しているのではないだろうか。

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