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『死霊魂』/ワン・ビン(2018)

驚愕の一作であった。
8時間15分という長さと、「反右派闘争」から巻き起こる理不尽というしかない強制収用・強制労働、飢餓による大量死・・・という内容からビビって見逃していたが、杞憂でありまったく退屈せずに観終え、打ち震えた。


最終的には120人ほどの生存者にインタビューをおこなったようだが、生存者ひとりひとりの語りの分厚さ。ひとつひとつのエピソードが「面白く」、笑いさえ感じてくる時もあった。
語っても語ってもその語りは終わらず、溢れ出す。人によっては、昼間から撮影された語りが終わる頃には日が暮れているほどだ。(『鳳鳴』もそうだった)
その語りに際しての身振り手振り、動き。これだけの語りを引き出すこととがまず驚きだが、その間ワン・ビンからの言葉はほとんど差し挟まれないことにも驚く。語りが一瞬途切れ、ふつうだったら何かしらの言葉をかけるであろう場面でも言葉をかけない。この「待ちつづける」姿勢。
冒頭から語りが開始されるが、いろいろな人物による語りが積み重ねられていくことで見ていくうちに段々と全体が見えてくる構造。

上映時間の長さや題材からクロード・ランズマン『ショアー』と並べられることがあるはずだが、(『ショアー』は未見なので推測だが)おそらく『ショアー』には『死霊魂』のような不思議な「面白さ」や「快活さ」はないのではなかろうか。

50年以上前のことを彼らはどうしてこれほどまでに鮮明に語ることができるのか。
記憶することが彼らを生きさしめ、記憶することでしか生きることができなかった、ということなのか。
(生還後も差別は続いたし、この体験を語ることは処罰されることを意味し、公に語ることもできなかったようだ)

『鳳鳴』→『無言歌』→『死霊魂』→・・・と一貫した問題意識と歴史への態度には胸打たれずにいられないし、『死霊魂』を見た今となっては『収容病棟』や『青春』だってこの系譜のひとつとして見ることとなるだろう。


記憶に残るシーン。
嘘のようにゴロゴロと転がっている人骨、現場を案内してもらう脇でカメラに興味を示し走り回る何も知らない子どもたち、生存者である老人の何もない部屋にある磨き上げられたアップライトピアノ、そしてそれをおもむろに弾く(というかただ音を出す)その響き・・・。


『死霊魂』をみる前日に行った「ホー・ツーニェン展」とのつながりも感じていた。時間・歴史・語り。