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天外伺朗さん講演会: 「正義と悪」という幻想を超えて宇宙の流れに乗る

はじめに

天外伺朗さんの最新刊『「正義と悪」という幻想』の出版記念講演会に(オンライン)参加してきました。非常に濃密な時間で、あっという間の2時間でした。この本は今を生きる全ての方々に読んで頂きたいと心から思いました。その中で、いくつかシェアしたいことが出てきましたので、わずかですが、ここに書かさせていただきます。なぜこの本をオススメするかがお分かりいただけると思います。

「正義と悪」という認識の正体


まずこの本のほんの一部の要約をご紹介します。今年に入って勃発したウクライナ戦争ですが、これを1つのきっかけとしてこれからの世界を展望する上で、正義か悪かの二元論に陥ってしまうのではなく、「宇宙の流れ」にゆだねてみようと言う視点がこの本の核だと思いました。

「え、そんなこと言ったってどっちが悪いか、どっちが正しいかは明らかじゃないの?そこをとったらいつまでたっても平和はやってこないんじゃないの?」

と言う言葉が聞こえてきそうですが、実はそういった誰でもしそうな発想が1つの落とし穴だったのです。

すなわち、第一に、どちらかを正義と見てどちらかを悪と見る見方は、実際の複雑な状況(とても言葉では表現しきれない状況)を十分に反映しておらず、非常に表面的であり、それは恣意的なストーリーであると言うことです。言い方を変えると、複雑な事象を、自分の都合の良いように切り取っているだけだと言うことです。さらには、こうした恣意的なストーリーは人々を刺激しやすく、より一層この地球上から分断を促進してしまうことにもなっていると言うことでした。

第二に、こうした正義と悪を分ける考え方は、その原因が外にあるように見えますが、実際は私たちの内面に深く関わっているのですが、マスメディアから流れてくる情報などをもとにして、正義と悪に分ける二元論にはまってしまうと、自分の内側にある二元論の根源が見えなくなってしまうわけなのです。

どういうことかと言うと、私たちはこれまでの人生の中で、家庭、学校、社会、その他の集団の中で、直接的間接的に「こう生きちゃいけない」と言うメッセージが何度も何度も刷り込まれて、そのプロセスの中で、どんどん「ドロドロした部分」や、一般的にはネガティブだと思われている特徴が人生の表舞台から遠ざけられ、どんどん内面に蓄積して隠れてしまう傾向があると言うことなのです。天外さんの言葉を借りれば、こうした内面の奥に蓄えられたエネルギーが「モンスター」となって、現実の生活の中に様々な負のインパクトをもたらすと言うことなのです。

一方で、家庭や学校や社会から「このように生きるべきだ」と言う理想の人間像が直接間接に刷り込まれて、その結果、「ペルソナ」と呼ばれる仮面をつけて、別の人格を装って演じながら生きると言うことになってしまったりするわけです。

つまり、まとめて言うと、「べきじゃない自分」と「べきである自分」という、「モンスター」と「ペルソナ」の二重構造が、現実の世界に対する悪と正義と言う認識になっていると言うことなのです。言い換えると、私たちは内面の二重構造を外界の世界に投影させてみていると言うことなのです。つまり、私たちが日常生活の中で体験する「受け入れがたい現実」と言うのは、こうした二重構造から発生している側面があると言うことなのです。

 

二元論から抜け出すために


したがって、内面の世界も外面の世界も敵と味方と言う二重構造の枠組みの中でとられており、言い換えれば「戦う力」を発揮させることに焦点が置かれ、その限りにおいて、私たちは、現在の正義と悪と言う二重構造から抜け出すことができないと言うことなのです。正義であっても、悪であっても、どちらも「戦う力」を土台にしていると言う意味では、全く同じ次元だと言うことなのでしょう。

そうではなくて、天外さんが推奨するのは、そうした正義と悪の二重構造を一旦括弧に入れて、「宇宙の流れ」に身を委ねてみようと言うことなのです。この「宇宙の流れ」に乗ることができれば、がんばらなくても、物事がうまく進んだりするそうです。

 

戦う力と実存的変容と融和力


しかし、だからといって、ただぼーっと現実を見つめていればいいと言うわけではなく、やはり、人間の意識レベルをどんどん上げていく取り組みが必要になってくるようです。実際に、天外さんは精力的に本を出版したり、講演会を開いたり、独自のセミナーなどを開催したりして、こうした「宇宙の流れ」に乗る生き方をパワフルに推進されています。

その中で、天外さんが重点を置いているキーワードが「実存的変容」であり、「融和力」なんだと思いました。これは、私の理解ですが、先ほど紹介した自分の中に住んでいる「モンスター」と自分を統合することができると、「敵か味方か」「正義があるか」のような対立的な二元論から抜け出せることができ、それ故思想信条を超えてつながることができる「融和力」を養っていけるんだと理解しています。

すなわち、人間が「戦う力」を中心に生きていると言う事は、「実存的変容」以前の段階と言うことであり、人間が「実存的変容」をくぐると、「融和力」を発揮できるようになってくると言う事なんだと理解しています。

 

実存的変容とは?

先程も述べたように、天外さんは、実際にご自分のセミナーや天外塾の活動を通して、実際に参加者の実存的変容を促すことを精力的にやっていらっしゃいますが、今回の講演会の中で、実存的変容を理解する上で1つ重要なキーワードが紹介されました。それは先ほど紹介した「正義と悪」の二元論を生み出す原因の1つである「ドロドロ」だったと思います。

実際に、私たちの日常生活の中で、私たちは「ドロドロ」したものを自分の中にしまいこんで、それを人前に出そうとしません。しかし、実存的変容を通った人間と言うのは、世間の常識とは必ずしも合致しないようなドロドロしたものをしっかり表現できるようなのです。

この話を聞いたとき、私はTED Talksで聞いた、「傷つきやすさのパワー(Power of Vulnerability)」の話を思い出しました。


つまり、例えば、私たちは傷つくことを恐れて、人と積極的にかかわったり、つながったり、挑戦したりすることを控えたりするわけですが、しかし、この傷つくことに真正面から向き合って、その奥にある「結びつけたいと言う思い」を表現することによって、新たな人々と結びつけるだけでなく、そこから新たなものが創造されていくと言う内容だったと記憶しています。

私たちは人生の中で内面に押し合ってきた「ドロドロした部分」も表に出してしまうと、傷ついてしまう可能性があります。1人になってしまうかもしれませんし、対立してしまうことになるかもしれません。しかし、そこから逃げずに、ドロドロした部分としっかり向き合って、表現することによって、そこから新たな関係性が始まったり、これまでの関係性が深まったりする事は十分にあり得ることであり、こうした現象が、「実存的変容」や「融和力」の1つの表れ方ではないかと思い、その点が今回の天外さんの話とつながったように感じたのです。

私ももっと家族や子どもの前で、「ペルソナ」の仮面をつけずに、もっともっと「ドロドロしたところ」や「傷つきやすいところ」を見せてもいいんだ、とお墨付きをもらったように感じました。

 

「宇宙の流れに乗る」とは?


ところで、この「宇宙の流れに乗る」とは一体どういうことなのか、なかなかイメージがつきにくいかと思いますが、今回の講演会の中で、天外さんが自分のやってる事について、「面白いからやっている」とおっしゃっていたのが非常に印象的でした。すなわち、「自分のためにやっている」とか、「他人のためにやっている」とか、そういう次元ではなく、「何だか知らないけど、そちらに自分が向いている、動いている」と言う感覚なのだそうです。これが「宇宙の流れに乗る」と言う素朴な実感なのではないかと感じました。

 

宇宙の流れに乗れば、武力行使はなくなるのか?


では、こうした「宇宙の流れ」に乗れば、武力講師がなくなり、平和な世の中になるのでしょうか。今回の天外さんの話を聞いた限りでは、それはまだわからないと言うのが正直なところのようです。

すなわち、「宇宙の流れ」には、人間の集合意識が深く関わっており、人間の集合意識のレベルが高くなればなるほど、武力行使の必要がなくなってくる可能性があるのですが、人類は10000年以上も戦争の歴史を繰り返してきており、人類の集合意識が「戦う力」から「融和力」へとシフトする位のレベルに達していれば、宇宙の流れも武力行使をサポートしなくなると言う事なのですが、それは今どのようなレベルになるかはまだわからないと言うことなのです。もし、そのようなレベルに達していれば、ウクライナで起きている戦争は終息に向かうでしょうが、もしそうじゃなければ、さらにひどいことが起きるかもしれないと言うわけなのです。

 

今回用意した質問

今回、この講演会に参加する前に、本を読んで、私なりの質問を用意していました。


しかし、今回話をお聞きして確信したのですが、融和力を開花させたり、集合意識を高めて宇宙の流れに沿った生き方をすると言うのは、質問の1や2で示したような方法論ではなく、私たちの意識のあり方の問題だと言うことです。私たち一人一人が、外側だけに目を向けがちであった視点を、もっともっと深く深く自分の内側に向ける必要があり、そしてそこにいる「モンスター」とじっくり向き合う必要があると言うことなのです。そして、自分のつけている「ペルソナ」を取り外して、いかに「モンスター」と自分を統合していけるかと言うことが非常に全人類にとって大切だと言うことなのではないかと思いました。

そして、第3の質問「なぜ宇宙に委ねられるのか?」ですが、この質問した問題意識としては、宇宙は必ずしもポジティブだと思われる現象のみをもたらすのではなく、先ほども触れたように「宇宙の流れ」がまだ意識レベルの低い人間の集合意識の影響を強く受けているとしたら、まだまだ「戦う力」を増幅させることも十分考えられるわけですが、にもかかわらず私たちは「なぜ宇宙に委ねられるのか」という問いを投げかけてみたかったのです。

今回いろいろお話をお伺いして、感じたのは、そこには何か深い哲学的な意味があると言うよりも、先ほどご紹介した天外さんの言葉「面白いから」というのがかなり本質的な部分をついているんではないかと感じました。つまり、宇宙に委ねることができるのは、何か理性的で論理的な理由があると言うよりも、感覚的に「面白いから」とか「ワクワク、ドキドキするから」みたいなところが正直なところなのではないかと思いました。

デカルトさんの「我思う、故に我あり」ではありませんが、この不確実で複雑な世界を生きていく上で、私たちは様々なものを疑って生きているわけですが、この私自身が「面白いから」と感じた事は、確実なことであり、疑いようもない事実なので、まずはそこからスタートする視点もここにあると思いました。

第4の「遊び」についてですが、やはりこれから子どもたちの「融和力」を育てていく上で、子どもたちが毎日かなりの時間とエネルギーを割いている「遊び」に注目することが非常に重要なことだと思ったのです。

つまり、子どもたちの遊びの内容や質が、子どもたちのその後の人生に少なからず影響与えているのではないか、言い換えると「戦う力」をさらに助長するものなのか、「融和力」を促進するものになるのかに関わってくると言う仮説があったのです。

例えば、日本の子どももオーストラリアの子どもも大好きな、マインクラフトと呼ばれるオンラインのゲームがあります。これは、世界を創造する「平和モード」とさまざまな武器を使って相手と戦う「戦うモード」の2つがあり、これは何か今回の「平和の担い手を育成する」と「戦う力を育成する」話と符合するところがあるように感じました。つまり、どちらを選んで遊ぶかによって、その子の中に育成される力もかなり変わってくるんではないかと考えたりもするのです。

そして、第五に、今日多くの人が無意識のうちにはまってしまっていると言われる「叱る依存」も、今回のお話から言ったら「モンスター」と「ペルソナ」の二重構造から生まれてくるものではないかと感じました。すなわち、自分の中で押し殺してきた特徴(モンスター)を体現している目の前の子供に対して、自分を投影し、自分がつけている「ペルソナ」の仮面で自分を隠しながら、子供と戦っている事例なんかもあるんじゃないかと感じたのです。

 

オーストラリアはスムーズに進む?

今回幸運にも、天外さんとお話をするチャンスがあったのですが、その時は、何か上記に挙げた質問をするよりも、何かオーストラリアの話をしたいなと感じました。

私がご紹介したのは、私の生徒たちに「人生の中で最も美しいと思うものはなんですか?」と言う質問したときに、どのクラスも多くの子どもたちが「私自身」と答えたエピソードでした。このエピソードを紹介した時、オンライン越しでしたが、会場の方々から「わー」と言う感嘆のような声が聞こえました。おそらく会場の方々も意外だったのではないでしょうか。

このエピソードを紹介したのは、今回の講演の中で、天外さんが「自己否定感」の話を紹介されたからです。すなわち、戦後の歴史の中で日本は様々な形で自己否定感を人々は感じており、その自己否定感を「戦う力」として、克服し、その結果経済が成長発展してきたと言う話です。しかし、オーストラリアの子どもたちが「人生で1番美しいと思うものは自分だ」と答えたと言うエピソードは、もちろん全員がそうでないにしても、自己肯定感が高い子どもが少なからずオーストラリアに存在していることを示唆するものであり、何かそこに、融和力の萌芽を見たように感じたのです。

その後、天外さんが言ってくださった事は、「オーストラリアに行くと、そこにいついてしまう人が結構いる」と言うことと、「オーストラリアは物事がスムーズに進むことが多い」みたいなことだったと思います。

それを聞いて、私が感じたのは、確かにオーストラリアを見渡した場合に、日本に比べて高層ビルや電信柱や電線が極端に少なく、また、家と家、建物と建物を区切る壁が日本に比べたら少ないと言うことです。

さらには、オーストラリアの原住民であるアボリジニたちの文化を見ると、彼らの絵画は、動物も山も川もすべて点で波のように絵描かれており、それぞれを区切る壁がなく、すべて1つの中にスムーズに描かれているような感覚があります。

天外さんのご指摘で、何かオーストラリアを深いところで再発見したように感じました。

おわりに


最近、哲学を通じて理性と論理と言語の世界にどっぷりはまっていたのですが、天外さんのおかげで、私の中に理性や論理や言語を超えた世界の感覚が取り戻されたように感じました。

やはり、この世界は言葉では切り取り不可能な次元も存在していると言うことを改めて認識することができました。

私もこれまで何度もを論理や理性では説明のできない不思議な体験をいっぱいしてきましたが、天外さんの不思議な体験は私のそれを遥かに超えるものでした。例えば、トンビが天外さんの頭をつっついた話とか、とある場所で虹をバックに写真を撮ろうとしたのに誰もカメラのシャッターを押す事はできなかったこと、そして虹が消えた後にはシャッターを押すことができるようになった体験など、どれもいつまでも心に残るような不思議エピソードだったと思います。

今回体験した2時間は、1つの旅にも匹敵する、世界を再発見する深い心の旅路となりました。

オーストラリアより愛と感謝を込めて。
野中恒宏



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