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#5 佐武あつし

大音量で音楽が流れている。ギターやボーカルも目立つが、なによりドラムが大きいと思う。100Hz帯の音をブーストしてスピーカーから流しているのだろうか。店内の人々は音楽の音量に負けないような声量で喋っている。
いわゆる「ロックバー」にいる。店の隅にあるテーブル席で、佐武あつし(さたけ・あつし)と鬱木ゆうとは向かい合って座っていた。鬱木は率直な意見を口にする。
「ここまで音量を大きくする理由がわからない」
「え?」
鬱木はうんざりしながら同じことをもう一度言う。
「ここまで音量を上げる理由が分からない」
「お前が声量を上げろ」
佐武あつしは同じ私立の理系大学の同級生だった。しかし2年時に彼は突如退学し、国立大学の心理学部に転向した。やがて臨床心理士の資格を取得し、現在は心理カウンセラーになっている。情報工学から心理学へ専門を変えた稀な例だった。
短い頭髪を整え、耳にピアスをつけている。緑の葉がデザインされたシャツは、目鼻立ちがくっきりしている彼にとても似合っていた。しかし心理カウンセラーという職業は全く似付かない。

「君はカウンセラーには見えないね」
「そんなことは言われ飽きたよ」

佐武は煙草を吸ってゆっくり煙を吐き出した。遠くのカウンター席に一瞬視線を向けてから、ぼんやりとこちらと視線が合う。同性ながらこの男はモテるだろうなと思う。
「新しい仕事はどう。データサイエンティストって面白いか?」
「まあまあ」
「理系なら定量的に評価してくれ」
「70点」
もっとも、この数値は絶対評価なので当てにならない。数値そのものは他の数値と比べることで評価することができる。それが相対評価である。
店内にはThe Afghan Whigsの「Neglekted」が流れていた。

鬱木は本題に入った。
「金子ゆいさんのカウンセリングをしてほしい。彼女は未来電波基地のリスナーでインスタグラムのDMで相談してきた。家庭は崩壊していて虐待も受けている。明らかに助けが必要な状況なのに、頼れる大人が周りにいない」
「警察なり病院なり、行けばいいじゃないか」
「そんな単純な話じゃない。一度精神科に行ったら親にばれて、世間体が良くないと言って止められたらしい。健康保険証も取り上げられている」
「未来電波基地って、ただのお前の趣味の音楽だろう。なんでそこまでリスナーに取り入るんだ」
「困ってる人が目の前にいるから助ける」
「それは本心か?」
鬱木は自問自答した。自分が人を助けたいと思うのはなんでだろう。それは単なる個人的な自己実現、もしくは偽善ではないのか。しかし金子ゆいが送ってきたメッセージを思い出すだけで胸が痛む。
「本心だよ。カウンセリング料は僕が払うから頼むよ」

店員がグラスを持ってきた。店のロゴが入ったコースターを敷いて丁寧にグラスを置く。佐武はジンライムで鬱木はコークウイスキーだった。佐武はそそくさとグラスに口を付ける。
鬱木は、佐武のこういうところが良いと思う。この男は乾杯などという無駄な儀式はしない。

乾杯とは何なのだろう。会社の宴会で乾杯の前に一口だけ飲んでしまったことがある。すると、その行動があり得ないという風に文句を言われた。まるで宴会そのものが台無しになるかのような言い方だった。そんなに、皆でそろえて酒を飲む行為が尊いのだろうか?いや、儀式を通して安心を得たいのだろう。みんな一緒に。掛け声を合わせて。幼稚な日本のサラリーマンの習慣に付き合うくらいなら、嫌われて生きていく方がマシだと思った。

これと似た習慣に手を合わせていただきますがある。あれは誰に言っているのだろう?食事の席で「鬱木さん、いただきます言わないんですね」と指摘されたことがある。誰に言えばいいの?と聞いたら「誰とかじゃなくて、ご飯を食べれることへの感謝の気持ちです」ときつく言われた。気持ちの問題だったら、態度で示さなくても心で思っていれば同じことだと思う。しかしそれは相手には言わない。言ってしまえば更に軽蔑されるに違いない。

佐武の声が思索を中断させた。
「金子ゆいさんと会ってみるよ。ただし、非公式だからカウンセリングではない。だから、お金ももらわない」
「ありがとう」
「でもな、カウンセラーにできることは限られている。傾聴とアドバイスだけだよ。処方箋は出せないし、診断をするのは医者の仕事だ」
「もし僕を診断したら何て病名を付けられるんだろう」
「お前はサイコパスだよ。未来電波基地なんて音楽作ってる時点で普通じゃないし、それを聴いてる奴にろくな人間はいないだろう」
「カウンセラーがそんなこと言っていいの」
「今は勤務時間外だよ」

手元のグラスの飲み物を飲んだ。コークウイスキーは格別だと思う。フルーツ系のカクテルのような軟派さはない。コーラの甘さとウイスキーの重さが混ざり合い、山岳地帯を猛進する戦車のように舌を通り喉へ降下する。

佐武は考え事をしながらジンライムとメビウスの煙草を交互に嗜んでいる。
「その子の母親の職業は?」
「国語教師」
「堅い職業の人間ほど固定観念に縛られている。精神科に行くのは恥ずかしい。メディアは賢い。政治家は偉い。警察は正しい。悲しいことに、今言った全てはまやかしなのにな」
佐武は煙を吐き出しながら言う。
「無知なのは仕方がない。一番の罪は間違っている自分を疑わないということだ」
「まさにこの空間がそうだね。何故こんな音量で音楽を流す必要がある?お喋りと音楽、どちらを楽しむ場なのかはっきりさせた方が良い」
「それはお前の耳の問題だ」
「脳だよ」
「サイコパスめ」

佐武はグラスを持って立ち上がった。視線はカウンター席に向いている。その方向を見てみると、黒いタイトなミニスカートを履いた女が佐武に目で合図を送っている。
「義を見てせざるは勇無きなり」
「女を見ながら孔子を引用するのはやめてよ」
「鬱木、アディオス」
佐武は揚々とカウンター席に向かっていった。

金子ゆいの母親は、精神科に通うことを「世間体が悪い」と言って許さなかった。それは周りの視線を恐れているのだろう。普通じゃないという恐怖。他人と違うことへの違和感。
しかし、誰もが心に問題を抱えているのが現代社会である。体調不良で風邪をひいたら内科へ行くように、心の不調で精神科へ行くのは自然なことだ。
神経発達障害/ADHDは知能指数検査の結果から診断される。いわゆるIQテストである。作動記憶、処理速度、知覚統合、言語理解、4つのIQを測定していずれかの数値が他と大きくかけ離れていた場合、神経発達障害と診断される。
しかし、多かれ少なかれ、人には得意・不得意がある。能力にばらつきがあるのは自然なことで、それが極端だから障害だとレッテルを貼るのは、いわゆる「普通の人間像」を押し付けているようにも感じる。普通なんてものは、相対評価によって導き出された最も平凡で退屈な基準だと思う。自分の人生くらい絶対評価で生きていきたい。そして、そのような多様性を社会が受容することが重要であると思う。

ふと、目の前の席に女が座っているのに気付いた。ボブヘアーでシャネルのキャップを被っている。その女は手を振って、星形のイヤリングを揺らしながら明るい声で挨拶した。
「ハロー」
カウンター席を振り返ると佐武とミニスカートの女がにやつきながらこちらを見ている。
「私、あの短いスカートの人の友達。あの男の人に、あなたが一人で寂しいだろうから行ってあげてって言われたんです。音楽を作っている人なんですよね?」
「会社員です」
コークウイスキーを一口飲んだ。
「私、2000年代に流行ったロックが好きなんです。ヒラリー・ダフって分かります?」
「うん。アヴリルラヴィーンは?」
「アヴリルラヴィーンはみんな好きだから、私はあまり聞かない」
「それって相対評価?」

自分の価値判断基準が他人の影響を受けていることに気付いていない人間は多い。シャネルやグッチなどのブランドを好んで身に付ける人は、自分の嗜好を言葉で説明できるだろうか?もしブランドの人気が落ちて周囲の人々が見向きもしなくなっても、そのアイテムを身に付け続けるのだろうか。
自分の価値は学歴や年収、ましてやアイテムでは決まらない。自分で自分の人生を幸せだと思えた瞬間に人生は豊かになる。それが絶対評価に他ならない。

店内で聞き覚えのある音楽が流れはじめた。未来電波基地の"善意と欲望"だった。
「僕の曲が流れている」
「この曲が、そうなんですね。さっき佐武さんがリクエストしていましたよ」
「この店はそういう機能もあるんだ」
女は輪切りのレモンが入ったグラスを金属の棒でかき混ぜている。ソーダと同時に彼女のイヤリングも揺れていた。
曲はサビに入った。
「わあ、私この曲好きかも」
「それは絶対評価だね」
「なんでボイスチェンジャーを使ってるんですか?」
「地声が恥ずかしいから」
「ふうん」
彼女はレモンハイを呷って言う。
「変わってますね」
「そんなことは言われ飽きたよ」
そろそろ潮時かもしれない。鬱木は立ち上がった。
カウンター席を見ると佐武もミニスカートの女も姿が無くなっていた。金子ゆいさんのことは佐武に任せた。これで一安心だと思う。佐武はああ見えてしっかりしている。事実、彼ほど優秀な人間を他に知らない。
店内では知性の低い笑い声が響き、無数の話声が大音量の音楽と攪拌されていた。人はあえて不便な空間で喋ることで、何かを発散しているのかもしれない。実際、大声を出す機会なんて日常生活であまりない。
現代社会では様々な評価に晒されている。自分を維持するので精一杯だ。そんな煩わしさから抜け出すために、このような場所で羽目を外すのかもしれない。そうやって人々は明日も元気に生きていける。少しそう思った。
鬱木はふと、目の前の女を見る。

「もう帰るんですか?」
「義を見てせざるは勇無きなり」


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