他人に興味がない僕は 人の細かい変化には気づかないけど、 「相手がこだわってそうなこと」 を褒めて乗り切ってきた。 ネイル変えたとかは覚えてないけど、 爪がカラフルなら 「ネイル可愛いね」 って言えばなんとかなるし、 髪は切ってなくてもクルクルしてたら 「髪の毛似合ってるね」 と言えば相手から話を広げてくれることもある 男も一緒で、 体鍛えてるって言ってるなら 「少し大きくなった?」 と言われると嬉しいし、 履いてるスニーカーがいつも違うなら 「そのスニーカー私も好き
数年振りに風邪をひいて気がついた 健康の重要性 週末は前職先輩の結婚式で沖縄に行き、 平日は両国国技館で実施した社内表彰式があり 体力的にも精神的にも疲れたのだろう 沖縄は人生初だったが、 広く綺麗な海と、ゆとりのある時間により 人生の休息を味わえた気分になれた 目の前の仕事は想像よりも重要ではないし 生きてる世界は想像よりもどうでも良い と思った 人の手が加えられていない自然を 五感を持って体感することで、 少なからず自分は豊かさや幸せを感じるらしい 自分の喜ばせ
恋人と、友達と、家族と、 その人たちだけにしか通じない言語で、 話し合えたらいいのに。 そしたら周りを気にせず、 もっと深く繋がれるのに。
何かを得るということは、何かを失うことである。 前に進むということは、後ろにあるものを置いていくということである。
幼少期からリアルに考えている「自分以外ロボット説」の本質は、 「人生の主人公は自分」ということでもあり、「人生は暇つぶしで無意味なもの」ということでもある。
みんなと同じようにやったら、みんなが同じような結果になることを、みんなが同じようにできるように、みんなで同じようにする。 これがビジネスの1つの顔。
自分の名前、「輝」。 親からちゃんとした由来も聞いてるんだけど、「輝いた人生を歩んでほしい」という意味で、ざっくり言うと付けられた。 街ではクリスマスソングが絶えず流れてるけど、「今の自分は親に恥じず輝いてるのかなぁ」、と考えてみた。 そもそも、「輝いてる」の基準ってなんだろう。輝いてるというのは、誰かが自分のことを客観的に見た姿で、自分が主観的に輝いてると思っていればいいわけではないはずである。 誰かが自分のことを客観的に見て、輝いてると思う時は、誰かは自分のことを
気になってるアーティストが1stアルバムをリリースした。 聴き込んで、気になって調べたら、2つ上の28歳だった。 最近はちょっとずつ少なくなってきたんだけど、年齢が近い人が世の中の注目を得ると、劣等感や自分への虚しさを感じることがある。 比べる対象にもならないし、比べてどうにかなるものでもないのは分かってるけど、自分の人生が、人に誇れることのない平凡なもので終わっていくことに時々恐怖を感じることがある。 何かを成し遂げたいと思っていた20代前半から、何かを成し遂げなきゃ
AIが今よりも世の中に行き届いた未来では、もはや人間が付加価値をつけることなどできないのかもしれない。 人生の中に仕事を取り入れ、「働いてる時が幸せ」な状態を実現するのは今よりも至難の業になっていくのだろうか。
同僚と、「5年後には今やってる分析業務はAIに取って変わるよね〜あはは〜」とか話してたけど、結構真面目に考えている。 人間が付加価値をつけられることってどんなことなんだ。
デジタルネイチャーの時代がいよいよ訪れているなか、自分は人生をどのように謳歌したいのかと再考した。一点突破型の生き方か、マルチスキルを持った生き方か。 前者の方が人間的に面白いと感じる一方、自らが一点突破型の生き方はできないと感じる。
高校の恩師から教わった言葉で特に好きなのが、「評価は他人がするもの」。普通に生活していると、自分の視点でしかモノが見れなくなることが多い。でもそれをどう評価するかは他人次第。自惚れず、したたかに生きたい。
基本のスタンスは「万物に感謝」。日本人として生まれこうして生活ができていることがすでに奇跡で、よりよく生きる向上心を持てるだけで、本当に素晴らしいこと。すべてに感謝して、温かい心を伝えられる行動をしたい。
人と違った生き方を選択するのは自由だけど、人と関わらすに生きることは不可能。全世代からみた同年代などマイノリティなのだから、先輩から可愛がられる力、後輩に好かれる力を養うことが大事。
自己紹介するときには、生い立ち経歴はほどほどに。 今ハマってるものとか、こんな経験したことあるなどの説明を意識する。 ハードな部分ではなく、ソフトな部分に自己開示力があるんだ。
ビジュアルが超タイプな女性とランチに行ったが話が噛み合わず撃沈した。 自己開示力とコンテンツの少なさが永遠の課題。