検察側の罪人の対岸
SMAPが解散して3年の月日が経つ。ご存じの通り、SMAPの解散劇は異様な盛り上がり方を見せ、一音楽グループの解散報道に留まらずにその風情は社会現象とも呼べる代物だった。その余波はいま尚続いている。本作はその熱気が冷めやらぬ2017年の夏に撮影、1年後に公開され、最渦中にいた木村拓哉の主演作としても注目を集めた。
ここ10年間、日本では3つの社会現象が起きた。1つは東日本大震災、2つはSMAP解散、3つは新型ウイルスの感染。震災とウイルス感染は人災ではなく自然災害として見られる。しかし、その災害から経済の低迷のような二次災害とも言える事態を招き責任の所在が問われる。つまりは犯人捜し。責任=悪の所在を求めるのならばそこには必ず人(=意思主体)がある。昨今叫ばれている「悪いのはウイルス!」なんてことはない。善悪は心象とそれを表す言語のみに存在し、それを要する人のなかにしかない。ウイルスもしかり、そこに悪は在らず。悪いのは人。
形而上なるもの主観でしか成り立たない(この意見がそうであるように)。ある主観の対岸にはおそらく別の主観がある。それでは「検察側の罪人」の対岸にはなにがあるのであろう。そこには弁護側、検察側、判事側の正義であり、それぞれの罪があった。最上(=木村)も沖野(=二宮)も己の正義を貫く罪(悪)があった。つまるところ、最上はもとより沖野も「検察側」の罪人であって「弁護側」「判事側」にも「被告側」や「原告側」ですら罪人はいる。アウトレイジよろしく全員悪人。一見の正義はすべて罪(悪)に通ずる。
悪と正義が同義であるならば対岸にはなにがあるのか。それが「優しさ」であることを願う。ウイルス発症地、自粛しない人、営業を続けるパチンコ店を吊るし上げるのではない、彼らを想う優しさ。優しさが、いまの正義が白骨街道にならない唯一の道ではないか。
No stay home in my life
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