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この種の話題に真面目なコミュニケーションは可能なのか。

この種のブログで、真面目なコミュニケーションを期待するのは、難しいかも知れません。

私も出来る限り誠実な表現を心掛けていますが、一般的な社会通念とは、かけ離れてしまう発言もあり、不真面目と思われてしまうことを懸念しています。

「9次元存在」が本当に存在するかは、議論が分かれる所ですし、殆どの人がトンデモだと考える分野の話題です。

どうすれば理解が得られるか、真面目な議論に加わってもらえるかは、今のところ絶望的と言わざる負えません。

そう、時代性の観点に立てば、まるで、明治維新の日本が、そっくりそのまま世界にまで拡張された感覚なのです。

私は、ダニエルさんの様に、「意識エネルギー」を言語化するスキルはありませんが、少なくともダニエルさんの「チャネリングメッセージ」と「シンクロ」するぐらいには、「意識エネルギー」を無意識のままに変換し、体感出来ていると思われます。

言葉を介さないコミュニケーションを「意味の伝達手段」として認めることは、なかなかハードルが高いスキルです。少なくとも自分の頭の中では、無意識下の思考を除いて、脳内に再現した言葉を使って思案を巡らせます。

「意識エネルギー」を信頼するには、「シンクロ体験」を重ねながら、自分の中に信頼感を醸成するしかありません。

これを「偶然の出来事」として切り捨てるのか、「シンクロ体験」として受け止めるかは、個人のスキルに任されます。

まあ、「単なる偶然にすぎない」との立場にたてば、殆どの「奇跡」が「偶然」ですし、「ダニエルさん」が私の「ブログの閲覧」や、PCの下書きを「ハッキング」している事と成ってしまいます。

どちらの「現実的可能性」が高いかと言われれば、「ハッキング」なのかも知れませんが、私の過去の「スピリチュアルな体験」までは、「ハッキング」しようがありません。

過去の体験が作り出す「意味エネルギー(情緒的な感覚)」をことごとく指摘されては、抗う術がありませんし、抗う必要さえ感じません。

この話題に付きましても、ダニエルさんの「チャネリングメッセージ」が発端なのですが、まるで、「虚空間」と「実空間」が「複素空間の連続したコミュニケーション」として、成立している感覚です。

例えば、『京都旅行中のとある交差点を車で移動中に「この付近に住む」と独り言ちた』思い出を思い出してみます。
その当時は、「スピリチュアルな知識」は殆どなく、ただ独り言の様な空虚な感覚です。
何の根拠もなく、ただ何となく「将来ここに住むのかな」と言った程度の希薄な感覚です。
戯言と言っても過言ではありません。
それが実際に、目の前の風景を見ながら思い出されたとしたらどう解釈されますか。
目の前で見るまでは、すっかり忘れていた思い出なのです。
その衝撃と言ったら、筆舌に尽くしがたいものがあります。
これは、「自分で仕組んだ」のか、「他者に仕組まれた」のか、はたまた「単なる偶然」なのか、過去の記憶を手繰り寄せても全く見当が付かないのです。
「自身の心」を見詰めながら、その時の感覚を思い出しながら、ひたすら考察するのです。
「御蔵島での嫁との出会い」もそうですが、「奇跡」なのか「偶然」なのか、はたまた「運命(必然)」なのか、見当が付かないのです。
そんな現実を、「はいそうですか」と受け入れられますか。
誰もが、何らかの「神的存在の関与」を連想すると思います。
その経験があって、「9次元存在」との「シンクロ体験」ですから、その説得力は圧倒的なのです。

そこに、メッセージとしての「共同創造」のフレーズが来るのですから、「自らの役割」として信じてしまうのです。
「妄想」や「思い込み」だけでは、とてもじゃないですが解釈しきれないのです。
スピリチュアルで「主観的な根拠」と同時に、現実的で「具体的な根拠」もあるのです。

何処へ向かうのか、何が待っているのかと、ダニエルさんの「チャネリングメッセージ」をワクワクしながら読み解いている自分が居るのです。

しかし何だかこの様な言葉の応酬は、堂々巡りですね。

言葉によるミュニケーションの限界でしょうか。。。。

えーとですねえ、今までならここでお終いなのですが、この次元に風穴を開ける意味を込めて一歩踏み込みたいと思います。

これから地球規模のETコンタクトが本格化します。
「地球維新」は本物ですし、「9次元存在」も本物です。
よって、私の言動も普遍的真実を含む事になります。

この宣言も、ある意味での「共同創造」の一端なのです。

楽しみですねえ。

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