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Sさんのこと

 30年前に書いた講演会のための原稿を読み直してみようと思ったのは、当時同じ職場で働いていた方から手紙をいただいたのがきっかけである。懐かしく思いながら手紙を読み進むうちに、当時のさまざまな記憶が鮮やかに蘇ってきた。中でもひときわ鮮明だったのが、Sさんにまつわる経験であった。

 小さな町の病院で私がSさんを初めて診察したのは、30年前の秋のこと。がん末期と診断された彼女は自宅で過ごしたいと自ら希望した。今でこそ、在宅医療という選択肢が世の中に知られるようになってきたが、介護保険施行前だった当時は、重い病気になって自宅で療養するなど思いもよらない時代であった。しかし、私が勤務していた病院は、院長が地域医療に積極的で、採算を度外視して必要な人に必要な在宅医療を届けていた。「在宅療養を希望している患者さんがいます」と院長に相談すると二つ返事で了解をもらえた。

 この時の在宅医療の経験がその後の私の医師人生を大きく変えることになる。17年後に在宅医療専門のクリニックを開業することになったのである。その意味でSさんは私にとって忘れられない患者さんの一人となった。

 以下の文章はSさんが亡くなって2ヶ月後、ご遺族の許可をもらって病院内で地域住民向けに講演をした際の原稿である。改めて読み直してみると、医師になって8年目、医療に対するみずみずしい想いが随所に溢れていることに気がつく。当時は「がんの告知」はまだ一般化しておらず、亡くなるに際しての延命治療や病室に心電図のモニターを持ち込むなど、今ならやらないような場面も出てくるが、時代の制約として読んでほしい。


 Sさんが体調の変化を覚えたのは、8月の下旬頃だった。体がだるい、ふらふらするという症状に引き続き、9月には真黒い便が出るようになった。かかりつけの病院を受診し血液検査を受けると、ひどい貧血があり、胃からの出血が疑われて、私の病院に紹介されてきたのだった。血の気のない顔で観察室のベッドで横になっていたSさんは、丸顔で少し太り気味の人だった。診察する私の顔を不安そうに見つめていた。真黒い便は、胃や十二指腸からの出血を考えさせること、診断のために緊急の内規鏡検査が必要なことを説明し、内視鏡室に移っていただいた。検査は十二指腸から始まり、胃の出口の付近、胃の真ん中と奥から手前に観察してくるのだが、胃のちょうど真ん中あたりの大弯という壁に粘液に見え隠れして潰瘍が見つかった。表面に付着している粘液をよく洗い流し全貌をとらえた時の私の気持ちは、何と表現したらよいだろうか。今、目の前に横たわっている人のこれからの運命を決するような、重大な、しかも良いことではなく悪いこと、いや最悪というようなことを発見してしまった時の何とも重苦しい気持ち。検査をやりながら、この人の残された人生の時間、家族の悲しみ、私が今まで受け持った患者さんとの間でやりとりされたもろもろの経験が頭の中をぐるぐると駆け巡った。診断は胃がん、しかも極めて進行した悪性度の高い胃がんだった。その一部が潰瘍化し出血していたのだった。

 その日のうちに家族に集まってもらった。御主人とSさんの兄、弟、あとから看護師をやっている姉が来られた。家族を前にして、Sさんの病状について詳しく説明した。進行した胃がんであること、下血していたのはそこからの出血であろうこと、超音波検査では、お腹の中のリンパ節に広範囲に転移をおこしており、手術は不可能であること、さらに悪いことには、播種性血管内凝固症候群という血液が固まりにくくなる状態を伴っており、抗がん剤による治療を早急に始める必要があること、仮に抗がん剤が効果があっても、予後は良くて半年、平均すれば、3、4ケ月しかないことをできるだけわかりやすく説明した。抗がん剤の治療はこの病院でもできるが、もし希望される病院があればそちらに転院できるように計らいますと付け加えておいた。というのは、この地方の中小の町ではどこでもそうなのだが、医療に関しては大都市指向が強く、特に重篤な病気の場合は大都市の総合病院を希望される方が少なからずいたからである。家族は皆で二言、三言相談したあと、「そういう状態なら地元でお願いします」という返事であった。私は「わかりました」と答えた。Sさんとその家族、そして私との力を合わせた戦いがこの日から始まった。

 44才になるSさんには6人の子供がいた。一番上と二番目の子供はもう成人して東京で働いているが、20歳前後の三番目の息子と下の三人の子供は一緒に暮らしていた。下の三人は、7才の男の子、5才の女の子、そして末っ子が2才の男の子と、まだまだ母親の存在が必要な年頃の子供たちだった。御主人は小柄だが彫りの深い顔立ちで、笑った顔がとてもやさしそうな人だった。7年近くも脊椎カリエスを患って、総合病院に入退院を繰り返し、病気の大変さ、つらさをみな味わいつくしたような人だった。「病気は気持ちが負けたらおしまいだ」というのが彼の口癖だった。この1、2年、病状も安定し、さあこれからという矢先のできごとだった。家にはSさんの母が同居しており、7人の三世代家族であった。

 がんの治療で最も大きな問題となるのは、やはり告知をどうするかということであろう。特に、完治する見込みのない進行がんの場合はなおさらである。ふつうは家族と事前に、本人にどのように告げるかを相談するのだが、Sさんの場合は少し状況がちがっていた。御主人にがんである旨説明した、その直後に御主人は本人にがんだと話していた。これはあとから考えると、これからつらく苦しい戦いになる時に本人の戦う意志なしにはそれを乗り越えられないと、御主人は自分の経験から確信していたからではないかと思う。だから、Sさんに対して私がした病状の説明は単純そのものだった。先ほど御主人から聞かれた通り、がんが見つかった、その治療をさっそくしなければならないと何の隠し立てもしなかった。抗がん剤の治療についても一週間に一度行うこと、副作用は出る可能性があるが、対策はとれることなど正直に話した。ただ、予後についてだけは、Sさんも聞いてこなかったし、むろん私の方からも話題にすることはしなかった。

 9月中旬から開始した抗がん剤治療は、もし効果が現れなければ急速に病状が悪化することが予想されたので、1、2週間は気が気ではなかった。幸いにして、2週間をすぎた頃から効果が現れ始め、自覚的にも血液検査上も明らかにいい方向に向かい始めた。4回目の抗がん剤の治療が終わった頃には、食欲もふだんと変わらないまでに回復した。そこで10月初旬に御主人を呼び、今後のことについて相談した。抗がん剤の治療が効果をあげ、落ち着いてきていること、今なら外泊が少しできそうであることなどを説明した。こういう場合、家族の反応というのはいろいろあって、外泊を積極的に希望する家族、むしろ拒絶的になる家族など、極端から極端まである。いろいろな理由があると思うが、一つには患者とその家族、夫あるいは妻や子供たちとの今までの関係がどうあったのかということに関係していると感じることがある。人は、死ぬ前に今まで生きてきた人生の総決算をさせられると思うのはこういう時である。御主人は「それでは少し外泊させてみてください」と返事した。そこで、私は看護スタッフと相談の上、中心静脈栄養のカテーテルをつけたまま外泊してもらうことにして、一日1、2回訪問して点滴の交換を行うこととした。病院の玄関まで見送りに出た私に、「それでは行ってきます」とうれしそうに笑いかけたSさんの顔を今でも思い出す。

 数日間の外泊中は、特に問題もなく経過した。看護スタッフも1日1回訪問して点滴を交換するのは何とかこなせそうだった。そこで、御主人と再度話し合いを持ち、長期外泊ないしは一旦退院も可能な旨お話しした。「本人も希望していますし」と御主人は即座に退院を希望された。Sさんは10月中旬、いったん退院となり、抗がん剤治療は自宅で慎重に続けられた。看護師が訪問した時に、検温、血圧測定など院内と同様の観察を行った。副作用のチェックのための定期的な採血はその際行ない、夕方に私が往診する時までに結果が出るようにした。幸い、自覚的には副作用もほとんど出ず、Sさんも「この抗がん剤は私に合っているわ」と言うくらいだった。

 Sさんの在宅療養がうまくいったのは、家族の存在が大きかったと思う。自宅ですごされたのは、10月上旬から翌年の1月上旬まで約3ケ月間だった。副作用が強く、また医学的に細かな状態把握をしなければならない種類の抗がん剤の点滴を短期入院で数日間した時以外は、ずっと自宅ですごされた。11月には末の男の子の学芸会にも出席できた。この間に私は病状が落ち着かない時は毎日、落ち着いている時は週に2回、平均すると2、3日に1度は自宅で診察していたから、30回以上自宅にお伺いしたことになる。そのたびごとに感じていたことは、聞き慣れたテレビの音、夕餉のほのかににおってくる味噌汁の香り、どたどたどたと駆け回る子供たちの足音、それらは生活の匂いであり音であって、病室の白くて冷たい壁の色や無機質な音、聞き慣れない人の声などに比べれば、つらく苦しい闘病生活をどんなに楽にするだろうかということだった。そのためもあったかどうか定かではないが、亡くなられる1、2週間前まで、ほとんど症状らしい症状を訴えたことがなかった。“しん君”と呼ばれていた末っ子は、診察の最中もベッドのそばにきてはSさんから「いたいいたいだから、あっちにいっていなさい」と言われていたが、Sさんにとってこの子の存在はどれだけ救いになっていたかと思う。

 12月中旬、たび重なる抗がん剤治療のため、血液中の白血球が減るという副作用が現れ始めた。発熱したらすぐ連絡をよこすように話しておいたところ、12月20日の夕方、38度代の熱がでたと連絡があった。すぐ入院とし、抗生剤の治療を開始した。数日で事なきを得たが、この頃から血液検査の上で少しずつ悪化が認められた。正月が自宅で越せるかどうか微妙なところであったが、幸いにして暮れも押し詰まった12月30日、自宅に帰ることができた。ところが、元旦から右足の痛みが出現した。がんが腰椎に転移したための症状だった。外来を受診したSさんに私は入院を勧めたが、今までのSさんとは打って変わって頑として入院しないと言い張った。御主人も「家内がそう言いますから」と、痛みどめの注射を腰に打ってSさんを連れ帰った。

 1月8日の晩に往診した時のことだった。中心静脈栄養カテーテルの刺入部の消毒をしていると、突然「先生、病院のこととは関係ないのだけど」と前置きして近ごろになく張りのある声で話し始めた。「実は私、宗教をやっているの。主人が脊椎カリエスをそれで治したの。私も結婚する時、ずいぶん悩んだし親戚からも反対されたけれど、今はこれでがんばっているの。先生にも新聞を読んでもらいたいの。1か月1640円で年間購読はどうかしら。」私は特定の宗教を信じたことはなく、自宅に勧誘に来てもほとんど話を聞いたことがない。しかし、この時は状況が違った。この人を支えている宗教の勧めをどうして無碍に断われようか。「いいですよ」と答えるとSさんは大喜びだった。「1ケ月しかもたないと思ったのに、4ヶ月ももったのだから、私、まだまだがんばる。」1ケ月しかもたないという言葉は、このときはどういう意味かつかみかねた。今までの彼女の言動から私が推測していたのとはあまりにもかけ離れた内容だったからである。診察の最中、何かの話をしている時に80才まで長生きした人のことが話題になって、「私もそのくらいまで生きたいわあ」とつぶやいたその顔は、がんは治ってくれるにちがいないという確信しているように感じられた。Sさんが亡くなる少し前に、御主人が「○子、この前、1ケ月しかもたないとか言って、先生、目を丸くしていたでしょう。」と私に言うので思い切って疑問に思っていたことを聞いてみた。「1か月というのは、御主人が言ったのではないのですか。」「いいえ、私はそんなことは言ったことはないんです。」人は自分の運命というものを、はっきりそうと伝えなくとも、かなり正確に悟っているものなのかもしれない。あらためてこの人が生きてきたこの4ケ月の一日一日の重さを感じた。私はそれにふさわしい対応をしてきただろうか。

 亡くなる2日前、1月10日朝まで、Sさんは自宅での生活を続けた。この日の朝、病院に御主人から、「突然、意識の状態が悪くなり呼吸も一時していなかった」と電話があった。私は、「すぐ伺います」と電話を切って、白衣のまま自分の車に飛び乗った。白衣で往診に行くのはこれが初めてだった。朝の厳しい冷えこみで道路はアイスバーン状態で、もどかしいくらいスピードを出せなかった。自宅に着いてみると、幸いにして意識も呼吸も元に戻っていたが、前日も同じようなことがあったことを考えあわせると、在宅療養を続けるのはこれが限界と思われた。御主人も介護でおそらく何日間も徹夜に近い状態と思われ、その意味でも入院を考えたほうがいいと考えた。その旨を御主人に告げると、同じ考えのようだった。Sさんの寝室に行き、「やはり入院したほうがいいと思う」と告げた。「良くなればまた家に戻れるから」とそのあとに付け加えようと喉まで言葉が出かかったが、飲みこんでしまった。一昨日のやりとりから考えると、おそらく死期を悟っているだろうと思われたので、あまりにも見え透いたうそをつくことに自分で嫌気がさしたからだった。入院の勧めに対しSさんは、「先生におまかせします」と答えた。横にいた御主人に確認をとると「○子がそう言っていますから」と言った。二度と生きては戻れない自宅から入院させるという重大な決断の、あまりの重さにめまいを感じた。そしてこの選択を、「おまかせします」と言ってくれたその信頼に身がひきしまる思いだった。病院に電話を入れ、至急救急車を迎えに来させた。病院に向かう救急車のあとを私、家族の車が続いた。

 入院してからの容体は比較的落ち着いていたが、翌日の昼過ぎになって容体が急変した。御主人から呼吸の状態が少し変だと報告があり、病室に伺うと今までと比べ、明らかに苦しそうな呼吸になっていた。動脈から血液を採取して血液中の酸素濃度を調べてみると、健康な人の半分から三分の一ぐらいしかなかった。さっそく酸素を投与し、御主人には「かなり容体が悪い、きょう、あすが危ないだろうと思う」と説明をした。看護師から急変ですとコールがあったのは、それからしばらくしてからだった。病室に駆けこむと、Sさんはほとんど呼吸をしていない状態だった。看護師が「血圧50です」と私の顔を見上げて小声で告げた。数日前に御主人と容体がこれ以上悪くなった場合の治療の選択について話しあっておいたが、気管内挿管をして人工呼吸器をつけるような治療はしないという方針を確認しておいた。しかし、容体の悪化がかなり急激だったため、病室には御主人しかいなかった。治療をしないでこのまま放置すれば数分で死亡してしまうと思われた。2才の末っ子のしん君をはじめとして、家族のほとんどが死に目に会えないのはあまりにも気の毒だと思った。そこで先日の御主人との話し合いの内容を越えない範囲で応急処置をする決意をした。昇圧剤を注射しながら、看護師にアンビューバックを持ってこさせた。マスクを顔にあてバックをもんで呼吸を助けてやると、少しずつ血圧が回復しはしめた。そうこうしているうちに子供たちが到着した。兄弟たちも一人二人とやってきた。1時間もすると大方の家族が到着したようだった。しかし、話を聞いてみると、外勤に出ている兄弟がまだ連絡がとれていないようで、途中で御主人が、「先生もうこのへんで」と言ってくれたが、「あと一人着いていないようですから、もう少し続けましょうか」と聞くと、「お願いします」という返事だった。私はベットサイドに座りこんで、一人でアンビューバックをさらにもみ続けた。2時間がすぎた頃、「○子―」と叫びながらその兄弟が駆けつけた。

 その頃、血圧は徐々に下がり始めていた。その兄弟が着いてからしばらくして、看護師が小さな声で「先生、血圧が触れません」と私に告げた。病室に運んであった心電図モニターは、血圧が触れなくなってからもしばらく100以上の頻脈を示していたが、やがて脈拍が徐々に低下してきた。モニターの音だけが響く沈黙の時間がどれだけ続いただろうか、御主人が「○子―」と妻の顔にすがりついた。回りを囲んでいた家族がそれを機にわっとSさんに取り付いた。私は自然とアンビューバックを顔からはずしベッドから離れた。私の出番は終わったと思った。呼吸の補助をやめると、数分もしないうちにモニターの脈拍が急激に下がり始めた。家族の目がモニターに注がれた。ピッピッという音の間隔がだんだん間遠になり、やがて音が聞こえなくなった。モニターの画面には平らな一本の線が描かれるだけとなった。家族の後ろに佇んでいた私は一歩前に出て、瞼を軽く開いて瞳孔の散大を確認した。「あーあ、ついに瞳孔が開いちゃった」と御主人がつぶやいた。私は腕時計を見て、「17時56分、御臨終です」と告げた。病室を出るといっぺんに虚脱感が襲ってきた。4か月間緊張し続けた糸がぷつんと切れた感じだった。しかし不思議と涙は出てこなかった。やはり他人なのだと改めて思った。

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