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ジョナサン・デミ『クリストファー・ウォーケンのアクターズ・ラブ』(1982)

 ただひたすらに素晴らしい…惚れ惚れとするような映画を見た──ジョナサン・デミが監督したわずか53分のTV映画『クリストファー・ウォーケンのアクターズ・ラブ』(1982)がそれである。カート・ヴォネガットによるたった13頁の短編「こんどはだれに?」(早川書房刊『モンキーハウスへようこそ』所収)を原作に、「原作を大きく凌駕した」と断言できる豊かで優れた幸福な映画化を成し遂げた。

 本作『クリストファー・ウォーケンのアクターズ・ラブ』(以下『アクターズ・ラブ』)は、スモールタウンの演劇クラブを題材に、ふたりの役者のささやかな恋模様を静かに描き出す恋愛映画。上に書いた通り劇場用映画ではなく、1981年から93年まで続いたPBSの人気アンソロジーシリーズ「American Playhouse」のうちの一話(S1ep4)で、プロデューサーも務めるニール・ミラーが脚色を担当している。
 役者ふたりの恋愛が描かれているのだから決して嘘ではないとはいえ、なかなかひどい邦題──ただでさえ長いうえに、実はオマケで「舞台は恋のキューピット」なる副題もついている──だが、原題は"Who Am I This Time"で原作と同じ。タイトルは、劇中で二度登場する、出演を打診された主人公が発する台詞「今度は誰になるんです?」を表したもの。

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 物語は、どことも知れぬ小さな町のありふれた体育館で始まる。お世辞にも広々としているとは言えない壇上では、お手製美術の中で役者たちが『シラノ・ド・ベルジュラック』を演じている。上演場所や演技の様子──台詞が思い出せなかったり、移動のタイミングを忘れてしまっていたりする──から、彼らがアマチュアであることが判るが、例外的に一際精彩を放つ主演男優がまるで役柄が憑依したかのように熱烈にラストシーンの科白をまくしたてる…そしてそれに聞き入るパイプ椅子に座った観客たち。
 この“主演男優”こそが劇団が誇る唯一の花形役者であるハリー・ナッシュ(クリストファー・ウォーケン)なのだが、彼は良くも悪くも“憑依型”の名優で、舞台の上で役を演じているときこそ観衆を魅了するものの、ひとたび舞台を降りてしまえば日常会話もままならず、少し歩けば蹴躓き、体の向きを変えただけで近くの棚を倒してしまう…という、なかば“社会不適合”的な不器用さを抱えた金物店店員に過ぎないという設定。映画冒頭の『シラノ…』公演後早々、次回の演目が『欲望という名の列車』に決まり、後日ハリーにも当然主演オファーがある(「今度は誰になるんです?」)が、半ば起用は確約されているにもかかわらず、過剰な謙虚さからわざわざオーディションを受けにやってきた彼は、監督がヒロイン役のためにスカウトした電話会社勤務の女性ヘレン・ショウ(スーザン・サランドン)──8週間だけこの地に出向で来ているという──と出会い、「せっかく主演候補ふたりが揃っているのだから」と、一緒に一幕演じてみることになり…ハリーのあまりにみごとな名演にすっかり胸を打たれたヘレンは、彼の平常時の人柄を知らぬまま“憑依”状態のハリーに恋してしまうのだ。ハリーはもちろんのこと、引っ張られるかたちで自らも熱演を披露したヘレンは見事役を勝ち取り、以後日夜リハーサルに励むことになる。募るヘレンの恋心をよそに、ハリーは演技を終えるとそそくさと帰ってしまうし、休憩中は無口でつれない(いうまでもなく、厳密にはコミュニケーションが苦手なだけなのだが)。演技力が右肩上がりに向上し、舞台上のふたりの間には化学反応が起きる中、一切関係性に進展なく、本番が迫る…さあ、どうなる?

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 本作の筋書きは、概ね原作短篇に忠実なものであると言える。しかしそれでいて、数こそ少ないものの的確なニール・ミラーの手による細部の脚色/改変が、例外なく場面を引き立てていて素晴らしい。たとえば、前述した、ふたりの出会いを彩るきわめて感動的なオーディション場面は原作には存在しない。原作内でも、確かにふたりは一緒に一幕演じてみる“ことになる”のだが、演技の様子は描かれず、監督の「よーいどん」の一声で場面は途絶えてしまうのだ。しかし、映画の演者ふたりの見事な演技を見れば、ここぞとばかりに天武の才を発揮するハリーと、演技経験こそないものの引き上げられるように熱を帯びるヘレンの共鳴に、手に汗握り、「これだよこれ」と審査員目線で配役の成功を確信し、ヘレンの恋心にも納得せずにおれないはず。全編、基本的に語りを阻害しない慎ましい演出を貫徹しているデミもまた、ここでは向かい合う二人の交感を、真正面からの主観視点ショット──デミの作品に頻出する── を用いて余すところなく画面に刻み付ける。「こここそが大きな見せ場になるのだ」と原作に記述のない“行間”の出来事に活路を見出した脚色者の、主演ふたりのパフォーマンスへの絶対的な信頼と、それを可能な限り映画的場面にしようとしながらも自らの気配だけは決して感知させまいという演出者の強固な意志。演技題材の映画として、これ以上なく正しい各々のアプローチ、“作品”=“物語”への献身の集積が、本作のたった53分の中の、いち見せ場に、類い稀な感動を付加している。

 この記事は、見過ごされがちな愛すべき小品『アクターズ・ラブ』の良さを取り上げるために書かれているから、本来ぼくの一身上のことは埒外にあるべきだ。本作が"優れた映画"であることは、論を待たない。でも、これまで上に書いてきた本作についての文章は、偽りなく"真剣"なものではあるものの、それでいてぼくの烈しく胸を打つ感動の要因を説明するには些か不正確/不十分というほかない。だからここで少しだけ書いておきたい。本作が──ぼくにとって──きわめて感動的な作品であるのは、"非職業俳優"についての物語だったからである。
 前述の通り、本作は徹頭徹尾”アマチュア”の物語である。そして、そこがいい。誰もが演技とは別に”生業”を持っている。演技は”生存”と直結した、やらねばならない”仕事”ではなく、(生活を維持する意味においては)いつ辞めても困らないものだ。彼らは、彼らの意志で、金銭的な見返りが全くないにもかかわらず、仕事を終えるとステージ上に集まってリハーサルをし、小さな街のごく限られた顔ぶれの前で三日間の本番を目指す…という生活を選び取っているに過ぎない。しかし、そここそが胸を打つのだ。もちろんプロになりたいと願っている/いた者も彼らの中にはいるだろう。けれど、なれないからといってやめたりはしないのだ。何よりもまず第一に”やる”ことが先立つ。誰のためでもなく、見返りもない行為を黙々と続けて生きていくことの美しさ。いち凡庸な”アマチュア”として、ぼくは心底救われたような気がした。

 余談が長くなったが、本題に戻ろう。本作のクライマックスはもちろん本番公演である。目線の交錯、漲る多幸感、実人生の冴えない日陰者ふたりが、舞台上でのわずかなひとときのみ輝き、満員の場内の観衆を夢中に、釘付けにさせる。思わず涙を流す名もない観客たちの顔が、一人ずつ映し出されていく上演場面のすばらしさたるや。しかしながら、この”クライマックス”は、本作の上映時間53分のうち20分も残された状態で終わってしまう…役者ふたりの物語の真の結末は、終演後に起こるのだ。演技中しか自己表現できない二人が演技の場を舞台の外の”人生”へと拡充することで結ばれる…という感動的なラスト、題名でもある台詞「今度は誰になるんです?」が改めて発せられることになるが、そのさい、字幕には現れぬ微細な主語変化による多幸感を決して聞き漏らさずにおいてほしい。

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 2017年に73歳で亡くなったジョナサン・デミは、いま改めてキャリア全体を見渡してもなんとも捉えどころのないフィルモグラフィーで、個人的にはまだまだ見ていない作品も多くある。だが本作を見て、作品のトーンが"深刻"化する前の小品だからこそ、デミの力量の真髄に触れられた思いがした。世間的にデミの代表作は『羊たちの沈黙』や『フィラデルフィア』ということになるのだろうが、真の全盛期はそこに至るまでの70-80年代だったのかもしれない。

…こんな映画があったのだ!

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