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クレール・ドゥニ『ジャック・リヴェット、夜警』(1990)

 「第3回 映画批評月間:フランス映画の現在をめぐって」で上映された『ジャック・リヴェット、夜警』(1990)を念願叶ってやっと見た…のは、もう3ヶ月も前(!)のことになるが、今更ながら覚書を残しておくことにした。”覚書”とはいっても、正直なところ今や全然覚えていない。厳密にいえば、もはやあらかた忘れてしまっている。そもそもぼくは、俗にいう”忘れっぽい”水準より輪をかけて記憶保存が壊滅的なので、3ヶ月も経ってしまうとどうしようもない。何もかもに備忘録を要する。以下の文章は、本来は3月末──作品を見てから数日以内に投稿することを目指して鑑賞直後に書き記しておいたメモ書きを手直ししたものだ。読み返してみると、なんとなく思い出せてくるような、こないような。

*  *  *

 『ジャック・リヴェット、夜警』は、厳密には“劇場用映画”ではない。作品自体は独立した内容を持っているものの、正確には「現代の映画シリーズ」というテレビドキュメンタリー番組の一篇である。この「現代の映画シリーズ」は、毎回一人の“巨匠”監督を題材に、若手監督が取材してドキュメンタリー作品にするという企画番組で、これまでも多くの監督が題材となり、多くの監督が各々の手法で偉大な先人の肖像に迫ってきた。今回、題材=被写体となるのは、50年代フランスで映画運動“ヌーヴェル・ヴァーグ”を牽引したひとりであるジャック・リヴェットだが、彼自身も1966年に“若手監督”側として同企画に参加し、偉大な先人であるジャン・ルノワールについての作品を制作した。そんなリヴェットに本作で迫るのは、若き日の──いまや“巨匠”として数えられることもある──クレール・ドゥニである。ドゥニはもともとリヴェットの助監督を務めていた人物であり、取材や露出を好まないリヴェットが、番組に取材を打診された際、「監督が(気心の知れた)クレール・ドゥニならば」と逆指名の条件を出すことで決まった人選だという。このシリーズの作品は決まった形式に則って作られることはなく、スタイルは監督によって千差万別であるのが特徴で、作品の長さも都度異なる。今回の『ジャック・リヴェット、夜警』では、全編が批評家のセルジュ・ダネーとリヴェットによる“対話”で進行するという極めてシンプルなアプローチが貫かれ、作品は「昼の部」「夜の部」の二部に分かれる構成となっている。
 フランスの“テレビ番組”に分類されるという事情から、このシリーズは日本においてなかなか鑑賞者を獲得することができずにいる。DVDになることはなく、かつて同じくアンスティチュフランセ主催の上映で、ごく限られた幾篇かが上映された事実こそあるものの、それでさえも字幕なし/英語字幕のみの上映であったり、良くて同時通訳であることが少なくなかった。そんな同シリーズは、日本において「なかなか見ることができない」ものであったけれど、例外的な作品に関しては「読むことができる」ものでもあった。それが、雑誌『ユリイカ』に抜粋翻訳が掲載された『エリック・ロメール、確かな証拠』である。批評家のジャン・ドゥーシェが聞き手を務め、ロメールの事務所でのシンプルな対話のみで構成されているこの作品の翻訳記事は、対話する二人の写真が配された対談記事といった趣で、基本的に会話以外の大きな展開を持たないこの番組の内容を把握するには不足はないものだ。興味深い“対話”の情報が、余すところなく──いや、”抜粋”なので余すところは…あるか──文字化されている。

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 しかし、いざ実際に『ジャック・リヴェット、夜警』をスクリーンで見ると、たとえ対話のみのシンプルな手法であったとしても、“読む”という体験は擬似的な受容にしかなり得ないという事実を痛感することになる。というのも、結局のところ“対話”の内容というものは“言葉”だけではないからだ。表情や身振り手振りはもちろん、言葉を発するタイミングや声色、沈黙、言ってみれば“動いていること”、流れている時間の全ての情報こそが“対話”の真の構成要素なのである。
 本作は、リヴェットの姿を徹底的に画面に収め続ける。カフェで批評家ダネーの質問に答える姿を。あるいはダネーと車道の真ん中を並んで歩きながら語らう姿を。かつて自作を撮影したロケ地で佇む姿を。夜のテラスで、監督のドゥニを交えた三人の鼎談を。同じ会話内容だったとしても、“映像”であるがゆえの“ニュアンス”がそこにはある。リヴェットは、ほとんど聞き手の顔を見ない。寡黙ではなく、寧ろ饒舌と言ってよいほど多弁で、身振りのジェスチャーも雄弁ながら、顔だけは質問者の方向を向かず、虚空を向いている。耳から聞いた質問の答えを、誰もいない空間に向けて感情を込めて語るのだ。その態度の理由を、われわれが同定することはできないし、そもそももっともらしい“理由”があるのかもわからない。いや、たとえ潜在的な原因があったとて、それはどうでもいいことだろう。重要なのは、彼がそう振る舞っているという事実だけだ。
 とはいえ、そんな多くの態度や言動は、リヴェットの仕事を省みるうえでの多くの示唆を与えてくれる。映画監督になる前のリヴェットはきわめて有能な映画批評家であったことが知られているが、批評家時代の厳格さが今なお名高い一方で、後の監督作品のイメージは“厳格さ”とはほど遠い──というのが、共通認識となっている中で、本作の存在は、その二つの隔たった時期の仕事を結びつけるだろう。リヴェットの作品は、即興性が何よりの特徴であり、カメラの前で繰り広げられる演者の身体性を尊重する。編集で細かく経済的/効率的に物語を進行していくという従来の“ストーリーテリング”とは一線を画し、演技が長引いてもその“時間”をありのまま作品に活かすのだ。そもそも脚本=物語自体が用意されていないことすら珍しくない。撮影前日ないし当日の朝、リヴェットの現場では曖昧な脚本のようなものが配られるという。しかしそれは演者に覚えさせる台詞という類のものではなく、あくまで各々の演技のベースとなる情報やシチュエーションなどのヒントが記されたものらしい。カメラが回り、演技をする最中に、演者とともにはじめて物語が出来上がっていくのだ。物語の多くが、“演劇”を題材としていることもその制作手法と無縁ではないだろう。アドリブの自由を最大限活用するリヴェットの作品は、避けることのできない必然的結果として、往々にして長くなる。時に3時間、時に4時間、そして時に13時間もの上映時間に。ただ、そんなリヴェットの即興性の“冗長さ”は、放任的演出態度からくるものでなく、厳密な理論の延長線上にある、きわめてロジカルな選択としての“厳格さ”ゆえの弛緩だったのだということが本作で明らかになるのである。リヴェットが語る、「顔だけをクローズアップで切りとる画面」への懸念、「巷の映画の上映時間は総じて短すぎる」──もはや短い時間で経済的に物語る術は失われた…という文脈だったかしら──という表明は、なによりも彼の作品の演出意図を説明するものでもあるが、それ以上に現代に至るまで続く映画の“セオリー”とは正反対の価値観であり、大いに検討の価値があるものだろう。
 余談だが、毎日欠かすことなく3、4本の映画を見に行ったというリヴェットは、子供向け映画から「見る価値なし」と断定された映画まで、どんな時も常に映画館で上映されている全ての映画を見ていたという。誰よりも厳格で恐れられた批評家、誰より異様な監督だった彼は、誰より勤勉/貪欲な観客でもあった…というのがおもしろい。

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※ちなみに今年発売されたばかりの、クライテリオン盤『セリーヌとジュリーは舟でゆく』特典映像に本作が収録されている(そして、さらに補足。じつはYoutubeにも上がっている)。

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