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アラン・ドワン『善良なる悪人』(1916)

 自らが父なし子であったためか強盗をしては未亡人や孤児に財産を分け与える義賊的カウボーイ"パッシン・スルー"は、保安官に追われる道中で立ち寄った町で父と暮らす女性エイミーと恋に落ちる。だがそんな中、強盗稼業でとうとう捕らえられてしまった彼は、母の知人であったという連邦保安官から、自らの父が殺された事件の存在を聞く…そしてその犯人は、想い人エイミーに町でしつこく言い寄っていたギャングの首領"ウルフ"だという…こうして彼の復讐が始まる。

 あまりに膨大すぎるがゆえに、正確には監督作品が何本あるか誰も把握することができていないアラン・ドワン──現在IMDbにおいて登録されているのは407本だが、1964年に行われた映画史家ケヴィン・ブラウンロウによるインタビューでドワン自身は、自らの監督作品リストを纏めようとして1400本"までは"リストアップできたと述べている──の初期監督作の一本。しかし"初期"とはいっても、長いキャリアの中で総体的に見ればの話であって、記録に残っている限り1911年から始まったとされる彼の監督経験は猛スピードで積み上がり、1913年頃に長編作品を撮り始めるまでの"短編時代"は週に3本もの映画を撮っていたというから、本作を監督する時分にはかなりの経験値だったことだろう。

 のちに「芸術的なまでの無駄のなさ、それこそドワンの真骨頂!」と形容されることになるドワンの手腕の成果は、わずか50分の本作の中においても挙げだせばキリがないが、特に、子供──のちのパッシン・スルーである。過去場面なのだ──を得て幸せの最中にある夫婦が玄関先で寛いでいるところに、素早く忍び寄った男が父親を背後から射殺する縦構図のショットには誰もが驚愕せずにおれないだろう。一瞬のうちに全てが変わってしまう。われわれ観客が人影に気づいた時には、もう絶対に避けようがないことがわかる…予想通り銃弾はすぐさま放たれ、無防備な男の背中に命中し、赤子を抱えた妻の目の前で息絶える…。つい先ほどまでは夫婦の多幸感あふれる馴れ初めが連ねられて描写されていたはずなのに…急遽最悪の事態に転ずるこのショットの予期できなさの衝撃が、悲劇の回避不能性の絶望感、そしてその後の展開──未亡人となった妻の人格が虚脱豹変し、子は"父なし子"となる──の説得力をもすべて支えている。

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 記事の冒頭に記しておいた粗筋の通り、本作は大まかに分類すれば"復讐劇"ということになるだろうが、たった50分の中で主人公だけでなく、両親の時代まで無駄なく描き切り、本作の対立関係が二代に渡る因縁であるという重みを与えているのが素晴らしい。中盤で明かされる主人公の父親が死亡する事件の顛末から判明する事実──元々、殺害者"ウルフ"は主人公の母を好いていた人物であり、自らの想いが叶わなかったことで伴侶=夫/父親を殺したらしい──は、本作で描かれる対立関係が過去の事件の"反復"構造でもあるという事実を示している。現在の時制において、"ウルフ"はエイミーを好いているが相手にはされない…そしてそんな中、彼女と突如恋仲になった"パッシン・スルー"へ敵意を燃やし、殺害を企てるのである。
 大きな"男×女<男"という関係/対立構造だけでなく、本作においては何度も"反復"が効果的に用いられる。主人公の母が遺した手紙、ペンダント、帽子をかぶせるという行為…序盤で一度画面に現れたモチーフが、後半に真の役割を全うするために再び現れる。二代に渡る因縁の大きな反復の中に、幾つもの小さな反復がある(余談だが、ドワンの作品に頻出する俯瞰構図のロングショットは本作でも多く見られる。まるで蟻の大群のように動く馬たちが鮮烈な印象をのこす)

 しかしながら興味深いのは、本作の筋書きは正統的な"復讐劇"であるはずにもかかわらず、その復讐を成し"遂げ"るのが主人公ではないという点である。母の知人であったという連邦保安官の助けを借りて、宿敵"ウルフ"を無力化した"パッシン・スルー"は、その場を連邦保安官にあずけて想い人の元へと急ぐことになるのだ。
 むろん、まだ"ウルフ"の一味はそこかしこに待機しており、首領ひとりを仕留めたからといって安心できない=すぐさまその場を離れるべきだという物語上の"理屈"は判る。しかし、ならば主人公が放つ銃弾を宿敵を"無力化"するのではなく、死に至らせるものに設定してもよかったはずである。しかし、ドワンはそうしない。その事実によって、われわれが理解するのは、本作は"主人公にとって"だけではない復讐劇だったということだ。宿敵を無力化し、想い人の安全を確保できる状態にあって、主人公の願望は結実した…その時はじまるのは、主人公の母親の知人──「ただの親友」と自ら言っている──だった連邦保安官の復讐である。逮捕された主人公に対し、ことの顛末を聞かせた後に「悪の道に戻ってはならん」と諭し、脱獄を手助けしたこの男は、「あの事件がなければ、いまも彼女は幸せに暮らせたろう」としみじみと語ったり、本作の中盤で並々ない無力感を滲ませる。だからこそ、主人公が去った後、息を吹き返した"ウルフ"と向かい合い、一発ずつ交互にお互いの身体に銃弾を撃ち込むという熾烈な戦いを経て、親友の仇を討つことになるのが彼なのだ。そしてそこにこそ、本作のスマートさがある。

 最終的に、"復讐劇"の型から抜け出て、想い人と合流した"パッシン・スルー"は追っ手を巻いたあと、画面に背を向けてふたりで去っていく…意味ありげな名前の通りに。まさに芸術的なまでに無駄がない傑作である。「ドワンの作品はいまだに採掘の最中にある。そこにはいろいろな混じりもののなかに純金が隠れている可能性を否定できない。近年の発見(中略)は人の知らない名作の鉱脈がまだまだ存在することを世間に知らしめた。ドワンが映画初期の最後の巨匠の地位を獲得しても何の不思議もない」…『フィルム・カルチャー』誌は1963年にドワンをこう評しているが、まさに膨大すぎるドワンのフィルモグラフィーという広大なフロンティアは、ほぼ手付かずと言っていい状態で目の前にある。皆で先を争って純金をさがさねば!

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手元にないので、後で参考文献を足します.

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