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私がいわきFCに出会うまで

初めまして!さとちんといいます。

年齢34歳、福島県いわき市出身、男性、独身。
人付き合いも少なく、何の特技もないつまらない人間ですが、自分の人生を振り返りたいのと、突然文章が書きたくなり、思い切ってnoteに挑戦してみました。
子供時代~東日本大震災~いわきFCに出会うまで~これから

自己紹介のような内容です。
長くなるかもしれませんが、少しでも読んでいただければ幸いです。

なぜスポーツが好きになったのか

私はスポーツ観戦、特に地元スポーツ界隈を追っかけるのが大好きだ。
きっかけは高校野球である。
今では福島県の高校野球というと、聖光学院がいて、甲子園でもそれなりに勝てる存在にはなったが、昔の、特に私の子供時代の福島県は本当に、本当に弱かった。
どのくらい弱かったのかというと、私が初めて見た記憶で一番古い福島県の出場校が1995年の夏に出場した磐城高校なのだが、この時は敦賀気比に1-6で敗退。
それから、福島県の高校の初勝利を見たのが5年後の2000年の選抜に出場した福島商業。
夏に至っては、そこから更に4年後の2004年の聖光学院が鳥取商に6-0で勝つまで。(この時は本当に嬉しかった)
夏の勝利を見るのに、物心がついてから、何と約10年かかるぐらい、負けるとこしか見なかったぐらい弱かったのです!

でも今になって思うと、この弱い時代を見てたのがよかった。
スポーツを結果だけで楽しむのではなく、色んな角度から楽しもうという姿勢がこの時から育まれたのだと思う。
負けたとしても選手の気持ち、成長が感じられたらそれだけで本当に嬉しかった。
スポーツの魅力に小学生の自分はまんまとハマっていったのである。

もしこれが、私が高校野球の強い、例えば神奈川県とか大阪府出身だったとしたら、こんなにスポーツが好きになれなかっただろうと断言できる。

とはいうものの、やはりスポーツの強豪地域には憧れがあり、いつか福島県でも、とりわけ球技スポーツで強いチーム出ないかなぁっという羨望もまた、ずっとあったのである。

子供時代の私といわき 都会へのあこがれ

私はずっと地元が嫌いだった。
子供時代からいわき市のポテンシャルは感じてはいた。
だけど子供だから。
遊ぶところも大体同じ。
テレビ番組もつまらない。
スポーツも弱い。
当時は映画とか、アニメとか、伊集院のラジオ、電気グルーヴが大好きだった。
今はネットがあるから、アニメ放送とかアーティストグッズも地域格差はほとんどないが、昔はそういったサブカル関係はまず間違いなく地方にいたら楽しむのには高い壁があった。
なので、当然周りの人も自分みたいなサブカル好きの人間もそんなにいるわけでもないので、ずっと孤独感があった。
また自分は中学時代にイジメにあい、不登校の経験もある。
そんなのだから、当然地元に愛着など沸くわけもない。
はやくここから抜け出したい、こんな閉鎖的な地域から脱出したいという思いはどんどん募り、大学進学をきっかけに神奈川へ引っ越すのである。
希望を胸に抱きながら。

挫折

その大学のある医療系の学部に進学した。
実を言うとその大学は第一志望だったのだが、自分の学力では正直合格できるとは思えない所に合格してしまったのである。

しかし、当たり前だが大学は入って終わりではない。
授業についていくので必死で、毎日勉強の思い出しかない。
毎年留年ギリギリ、そんなんでも何とかやっている悪戦苦闘の日々の途中、思いもよらない知らせが届いた。

母がガンになった。
末期のすい臓がんで見つかったときはステージ4だった。
もう訳が分かない。
今まで当たり前のようにいた存在が、もう少しでいなくなるという事実が現実としてうけいれられない。
ガンってすごいんですよ。
猛スピードで体から肉をそぎ落としていく。
見るたびにやせ細っていく母。
もう見ていられなかった。
それで発覚してから約3か月後、亡くなった。
兄妹で一番のマザコンだった自分は一番荒れた。荒れに荒れた。
完全に自分を、人生の目標を見失った。
2度、自分の命に対して絶対にやってはいけない行動を試みた。
生きているのは運がよかったとしかいいようがない。
今だったらそこから踏ん張れる自信はあるが、当時の自分には無理だった。
引きこもりになり、勉強のモチベーションも完全になくなり、結果大学を退学した。
理由はどうあれ、結局自分に負けたのである。
夢は破れ、逃げるようにいわきに帰ってきたのである。

東日本大震災 目覚め始める地元愛

いわきに帰ってきてからも特に気持ちが変わったわけでもない。
一応前の大学で取得した単位があったので、それを利用して地元の大学に編入したものの、気持ちは滅入ったまま。
生きているんだか死んでいるんだかわからない、グダグダした生活をしているさなか、あの震災が。
今まで当たり前のように見えていた風景が一変。
そして放射能。
放射能に関わる福島へのでたらめな、差別的な誹謗中傷がまぁひどかった。
ひきこもりがちな生活をしていたこともあり、自分は当時ずっと2ちゃんねる(今の5ちゃんねる)を見ていたのだが、あまりにも事実とは異なったカキコミ、福島を差別する内容が多すぎて、イライラしていた記憶しかない。
何もないところだけどそんなひどいこと言うなよ、いいところだって一杯あるんだよ!
福島を、浜通りを、いわきをばかにするなっっ!!!



あれ・・・?


そう
大震災という悲しい出来事がきっかけとなり、今まで地元を嫌っていた自分に初めての感情、【地元愛】が知らないうちに芽生え始めたのである。
人生、なにがきっかになるか本当にわからない。

そこから、もっと地元のことを知ろうと決意。食べ物とか歴史とか。
そしてひきこもり気味だったけど、もっともっと人と関わろうという前向きな気持ちが生まれ始めた。
真面目に学校にも行きはじめ、無事大学を卒業することができた。

その頃には、あんなに嫌いだったいわきが大好きになり、そして何より、自分自身のこともちょっとだけ許せるようになってきた。

悲しいこと、辛いことが多かった震災だったけど、自分の地元愛、また自分の人生の軌道修正になったトリガーは、まさかの東日本大震災だったのである。

そしていわきFCの誕生

初めて知ったのは、確か福島民報の2015年の11月か12月のネット記事。
湯本にアンダーアーマーの物流倉庫ができるみたいな見出しだったかな?
本文を読むと隣の敷地を使って、Jリーグを目指すサッカーチームも作るという内容が。
まだこの時の自分は、ふぅ~ん、ぐらいのテンションだった。
っていうのも、いわきには以前にも、同じJリーグを目指すというクラブがあって、志半ばで終わってしまったっていうのを見てきたし、全国にも似たような終わり方をするクラブをごまんと見てきたし、今回もそのぐらいのクラブなんだろうな・・・って思っていた。
その記事には、いわきFCのHPのアドレスも記載しており、まぁ見てみるか・
・・ぐらいの気持ちで見てみたら・・・

このクラブは本気だ・・・
なんかやべぇのがいわきに来たぞ!(笑)

まずHPの作りの意気込みが違う。

そして確か当時のHPは大倉社長の理念のページしかなかったと思うんだけど、社長の本気、ビジョンの明確性、人材のリソースがそれまでのJリーグを目指す他クラブとはけた違い。

一気に信頼感が増す。

そして、未だに度々ネタにされる(笑)あのドームスタジアムのイメージ画像を見て、もうゾッコン!

そこからのいわきFCの快進撃、地域貢献は言うまでもない。

まさか地決一発で突破できるなんてね!


まとめ

ポジティブな報道があると、元気が出て、少しでもネガティブな報道があると少し落ち込む。
毎日いわきFCのツイッターをチェック。
チェックせざるにいられない。
いつも気になる、まるで恋人のような存在(笑)

2022年8月10日現在、J3でいわきFCは堂々の首位!
首位ですよ!首位!

でも正直に言えば自分は順位なんて何位でもいいんだ。
だってこういう流れでいわきFCに出会ったから。

そりゃいつも勝ってカテゴリーを順調に上がってくれたら、そりゃ嬉しいに決まってますよ!

でも、浜通り、そしていわき市に根付いてくれている限り、チームスタッフ、選手が諦めないで真剣にプレーする限り、私はどんな状況でもいわきFCを応援することに変わりません。
これは絶対にゆるがない。

ここまで読んで下さり、本当にありがとうございました。
初めてのnote、つたない文章で読みづらくて大変申し訳ありません。

でも、今思う自分の人生、そしていわきFCへの思いを一生懸命書きました。

これを読んでいわきFCに少しでも、ほんの少しでも興味が沸いてくれたら、本当に嬉しいです。

生きてて本当によかった

ありがとう、いわきFC

WALK   TO   THE   DREAM





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