見出し画像

喪の昼餐(ブルームの話)

※2010年にサイトにあげていたお話の再掲です。

========

 アルスター王妃エスニャの死の知らせを聞いた時、ブルームはひとこと「うむ」と返したのみだった。人を下がらせ、一人になると、きょうだいで一人だけ取り残されたという感傷に人目を気にせずに浸った。いまのブルームはフリージ城にいることは稀だが、たまに戻ってきたこの城でその知らせを受け取ったことも感傷を深める一因である。
 感傷は追想となって、あれこれと昔のことを思い出す。例えば、バーハラの学舎にいた頃、こんなことがあった。
 「フリージはにぎやかだな。華やかでもある」
 と、言われたことがあるのだ。かつてブルームにそう言ったのはダナンだった。
 「にぎやか? まぁ、きょうだいは多い」
 「数じゃない。女の子だよ。お前いいな、妹が二人もいて」
 「いい? 隣の芝だ。身近にいてみろ。おてんばが過ぎる。全ての女がユングヴィのエーディンみたいなわけじゃない」
 ブルームは言ったが、ダナンはお構いなしに言う。
 「俺も妹が欲しい。今更だが」
 「本当に今更だ。むしろ『娘が欲しい』の方が現実的だろう。それに、本当にいたらいたでうるさいんだぞ。とは言っても、まぁ……」
 そこまで言ってブルームは言葉を切った。「まぁ、政略結婚の駒にはなるかもしれんが」などという言葉は、心底妹がいることをうらやましがっているダナンの前では言うべきでないと思われたのである。

 さて、ブルームには弟一人と妹二人がいた。
 結局、配偶者を家が決めたのはブルームだけだった。いや、末の妹は政略で嫁いだ。その前に家出をして、どこの馬の骨とも分からぬ男との間に子を産んでいたが。
 それにしても下の三人が三人ともこの雷公の城を飛び出し惚れた相手と生きることを選ぶなどと、ダナンと語っていた時は思いもしなかった。まぁ、その頃は想像もつかなかったような世の中にいまはなっているのだが。
 そして、惚れた相手の親の怒りに触れた弟も、反逆軍から引き戻されて虐げられつくした妹も、子供と引き裂かれ無理やり嫁がされた妹も、もうこの世にはいない。弟など元から存在しなかったようにされている。というか、ブルーム自身がそのように指示した。彼の痕跡が出来るだけこのフリージからなくなるように。
 「フリージはにぎやかだな。華やかでもある」
 取り残されたブルームはひとり、そんな言葉を思い返す。もう誰もいなくなった。ブルームを除いては。
 下の三人はこの城を出て恋を追ったかもしれないが、ブルーム自身はそうではなかった。彼は公家の人間らしく、親の決めた家柄の合う女を娶った。そして家が決めブルームの元に嫁いできた女は目が覚めるような美人だった。
 「ずいぶんと仲が良いのね。拍子抜けしそうよ」
 嫁いで来てしばらくして妻のヒルダはそう言った。きょうだい仲についてである。「仲が良いのね」という言葉は決して賞賛と共にはないことが口調から見て取れた。そこには軽蔑があった。
 妻はヴェルトマーの女である。
 かの家で近年起こったことはブルームも知っている。不幸と退廃とその反動。それがヴェルトマーの宮廷を支配しているものらしい。前公の行いはかの国にずいぶんとファラの子を生んだが、そのような姦淫の結果ではない、由緒正しき血統同士の祝福された婚姻の結果としてファラの血を引くことはヒルダの誇りである。
 「アルヴィス公は直系だけど母親の血統なんて知れたものじゃないわ。まぁ、直系はそれだけで何も言わせない価値がある。至高の価値よ。それは認める。比してまぁアゼルなんて公子といっても婢女の子。汚らわしい。ティルテュはずいぶんアゼルと仲がいいみたいだけど、あなたからもレプトール様に言ったほうがいいわ。すこし考えた方がいい、って」
 彼女にとって系図とはつまりそういうものであった。
 ともかく前ヴェルトマー公の行いとその後始末のおかげで、ファラの家はずいぶんと傷ついた。家名がではない、アルヴィスは血筋の絆を切って捨てた。切られたところは当然痛むのである。切られたほうも、傷を見続ける方も、ともに痛みを抱えている。
 妻の国はそういう国である。だから、フリージがずいぶんと平和に見えたのだろう。
 平和に見えたのだろう。拍子抜けするほどに。呆れるほどに。

 ブルームは自分の婚儀が決まった時のきょうだいたちの反応を思い出す。
 「あのヒルダ嬢! 見るからに気が強そうな……兄上、きっと尻に敷かれます」
 そう言って笑った弟は、のちに妻から「汚らわしい。公家に相応しくない男」と言われ、存在すら消されている。
 「アゼルの従姉でしょ? すごい美人なのよね! にいさまうれしいでしょ?」
 そう言って笑った妹は、のちに妻に虐げられ尽くして死んだ。
 「にいさまの背が高くて良かったです。ヒルダ様はすらっと背が高くいらっしゃるから、並みの男性なら踵の高い靴を履いたヒルダ様に背が負けてしまいますもの。にいさまなら大丈夫です」
 そんな変な安心の仕方をしていた妹は、妻に子供を取り上げられて、泣く泣くアルスターに嫁いでいった。
 と、全てを妻の所業にしても、それに了解を与えたのはブルーム自身であり、弟と妹たちの悲惨に自分は確かに加担していた。家を思えば妻の考え方はある程度は正しい。弟の所行は汚らわしいかもしれない。妹は反乱軍の一員である。もうひとりの妹は、家出娘であるが、その事実を隠せば政略結婚の駒として使える。
 だが、家を思えば正しい判断であろうが、「拍子抜けしそうに仲が良いきょうだい」の一員であるブルームには、そういう決断はしにくいものだ。だから妻が決めたことに了承を与えることはずいぶんと気が楽だった。妻任せの雷公。公の威厳という点で自分の評がよろしくないことは知っていたが、それでも良かった。そして結局のところブルームは、妻の果断、あるいは苛烈さを、自分にはないものとして愛していたのである。

 ノックの音がした。ブルームの追想は打ち切られる。入れと言うと、扉が開き、王家の侍女が現れた。土色の髪に土色の瞳をした少女。妹に良く似ている。それはそうだろう。このリンダは末の妹の娘なのである。シレジアから連れ戻した時、末の妹が抱えていた生まれたばかりの娘。親はシレジアの馬の骨といったところだ。彼女はいま、眼前のブルームが自分の伯父とも知らず、この国の臣として生きている。
 「ブルーム様。ヒルダ様がお呼びでございます。お食事をご一緒に、と」
 自分の母の訃報も知らぬこの娘に哀れが湧かないでもない。「分かった。すぐ行く」と短く答えるとリンダが言った。
 「私がブルーム様をお連れするようにとヒルダ様から仰せつかっております」
 連れて来いと言われたのだろう。妹が死んだと知った日にその妹の娘を使いによこす妻の意図をブルームははかり損ねたが、妻の機嫌を悪くしても良いことはない。ブルームはリンダとともにヒルダの元に向かった。
 ヒルダは宴会をしていた。昼間から、すでに飲んでいた。食事というより宴会である。
 その場にはイシュトーがいてイシュタルがいて、そしてティニーがいた。
 「あら、ようやく来たのね。ほら、あなたも、どう?」
 そう言って盃を傾けてみせる。
 「昼間から一体何事だ」
 言うと「思いつきよ。そういえば珍しく皆が揃っているじゃない。イシュトーもイシュタルもいるんだし、急だけど宴でもっていう気分だったの」とそう答え、「リンダ。ブルームにも注いでおやり」と命じた。
 リンダが命じられるままにワインを注いできた。妹の死を知ってすぐ妻の馬鹿騒ぎに付き合わされることに不快はあったが、言っても仕様のないことだと思う。杯を受け取ったブルームはそれを口に近づける。オークの香りが匂った。そして口に含んだ瞬間、ブルームの動きが止まった。卓の上、先ほどリンダが注いだワインの瓶を見た。そこで視線をとどまらせ、口の中でワインをいま一度確かめて、ようやく飲み下す。ブルームは妻を見た。妻はブルームを見ていなかった。息子と娘と何か言い合い、妻だけが笑っていた。その横顔は少し老いたいまでも美しいと思う。
 ブルームは杯に視線を落とした。渋みが強くブルームは好かない酒。「この渋みがたまらない」と言っていたのは昔日の弟である。その弟と一緒に「ブルームったら、この良さが分からないなんて」と言っていたのは若き日の妻である。やたらに渋く、樽が香る赤いワイン。
 明日にでもアルスター王妃死去の知らせはこの城全体に知れる。フリージ当主の妹の死である。まだ知っているものはわずかだった。妻はその一人であろう。
 これは妻の調えた喪の昼餐なのだとブルームは理解した。拍子抜けするほど仲が良いと言った遠い昔のあの日に妻の心にあったのは、呆れだったのか皮肉だったのか羨望だったのかブルームには分からない。そして、いまこの宴を整えた彼女の意図は何だろうと思う。呆れるほど仲の良かった昔日のフリージの残骸。惜別の場は必要なのである。いまここにに皮肉や嘲笑はとりあえず認めなくてもよいだろう。
 「いかがなされました」
 ワインを一口飲んだきり黙りこくってしまったブルームにイシュトーが言った。
 「……この酒は渋すぎると思ってな」
 言うと妻がこちらを見て言う。
 「この良さがわからないなんて。この渋みがたまらないんじゃない」
 ブルームは「それは個人の嗜好だろう」と答えた。いつだかもそう答えた気がする。お口直しにとイシュタルがブドウの房の載った皿を持ってくる。一粒もいで口に含むと酸味と甘みで舌が洗われた。杯を代えましょうかと言うリンダにブルームは必要ないと答えた。その間、ずっと隅の方で黙って立っていたティニーにヒルダが言う。
 「ティニー。そんな隅に突っ立ってないでこっちにおいで。今日は無礼講よ」
 ティニーは顔をあげてヒルダを見る。意をはかりかねた困惑がみえた。
 「ティニー。来なさい」
 ブルームは言った。ようやくティニーは動き出す。ブルームの前に立つと所在なさげに視線を上げた。
 「パイでも食べなさい」
 言って卓の上からブルーム自ら取り分けてティニーに渡した。ティニーは何をしてもヒルダの気に障ることを知っているので、普段から能動的には何もしようとはしない。もっとも、受動的に何かをしても、好意を受けることの図々しさがヒルダは気に入らないし、だからといって好意を断れば何様のつもりだとヒルダは難癖をつけるのであるが。
 ティニーは皿を受け取ってありがとうございますと言う。
 「リンダも食べなさい」
 ブルームは言った。リンダは素っ頓狂な声を上げる。
 「私もですか?」
 ティニーもイシュタルもイシュトーもみな驚いていた。王が侍女にパイを勧めるのである。ヒルダたけが悠然と杯を傾けている。そして言った。
 「食べなさい。今日は無礼講と言ったでしょう」
 恐縮しきりの下女が王からパイを受け取った。
 にぎやかで華やかで、拍子抜けするほどに仲がよい。
 そんなきょうだいがかつてこの国にはいた。いまはいない。ブルームひとりが生き残った。幾ばくかの感傷はある。このように過去の残骸に囲まれれば尚更だ。ここは妻が用意した感傷に浸る場である。悪趣味だとは思わない。これは妻なりの昔日への弔意である。素直ではないのである。
 ブルームはティニーとリンダに取り分けたパイの残りをつまんだ。香ばしく微かに甘い。懐かしい味がした。
 「まったく。味覚がお子様なのよ」
 ヒルダはそう言い渋いワインを傾ける。そして言った。
 「まぁ、こんな日にはそれも悪くないかしら」
 そうだろう。今日はブルームがひとり取り残された日なのである。