莎草離宮(聖戦のお話)

時節の挨拶用に書いたお話なのですが、これでは不幸の手紙になってしまうと気づいたので、ここで公開とします。

とても暗いので、暗い話が苦手な人は読まない方が良いと思います。

登場人物:イシュタル、ティニー、ブルーム、イシュトー(少しだけ)、ラインハルト(少しだけ)

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莎草離宮

「何を考えているの、ティニー」
 庭をぼんやりと、だがどこか深刻そうに眺めているティニーにイシュタルは声をかけた。。
 「……昔のことを、思い出していました。いえ、思い出そうとしているのですが」
 「昔のことを?」
 「はい。いつだったかもう、思い出せないのですが、イシュタル姉様と、おかあさまに会いに行ったことがある気がするのですが、おかあさまとその時どんな話をしたか、思い出せないのです。ただ、馬車に乗って、なんだかとても急いていたことは覚えていて……」
 「……莎草離宮ね。小さなあなたと行ったわ。馬車に乗って」
 「ささめ……」
 どうやらその宮の名はティニーの記憶にはないらしい。その様子に、イシュタルは少し安心する。そもそも、その名を持ち出すべきではなかったかもしれない。
 「……忘れて、ティニー。その館はもうないの」
 イシュタルはそう言った。

 ティニーが忘れてしまった日のことを、イシュタルはよく覚えていた。彼女の兄のイシュトーも同じだろう。その日イシュタルは兄と二人でティニーを勝手に城から連れ出して、彼女の母親が幽閉されている離宮に連れ出したのである。父も母もしばらく城を留守にしているからこその決行であった。
 城の中でティニーを連れ出すまでがイシュトーの役割。彼女を連れて幽閉先の離宮にティニーを連れて行くのがイシュタルの役割だった。二人ともまだ幼かった。幼かった二人がもっと幼かったティニーのためにしてやれることを必死に考えたのだ。ティルテュ危篤の噂を聞いたからである。
 「こっちはなんとかするから、あとはうまくやれ」
 なんとか連れ出したティニーを馬車に押し込みながら、イシュトーはイシュタルに言った。イシュタルとティニーが消えた城は大騒ぎになることだろう。
 「にいさま……あの…」
 たどたどしくティニーが言うと、イシュトーは既に馬車に押し込まれたティニーの目を見て、言った。
 「あとのことは心配するな。これからのことは、イシュタルにしたがえ」
 イシュトーの言葉が終わる前に先に馬車に乗り込んでいたイシュタルが言った。
 「出して」
 イシュタルが御者に声をかけて馬車が動き出す。どんどん馬車は加速し、あっという間にイシュトーと城が遠くなった。
もちろんフリージの御者がトードの裔とはいえ幼女の言いなりになるものではない。イシュタルが守役に頼み込んで段取りをつけている。間違っても御者の首が飛ぶようなことがあってはいけない。母ならそれをやりかねないとイシュタルもイシュトーもよく知っていた。
 「ティニー、おばさまにあいにいくのよ」
訳が分からぬまま馬車に押し込められて黙り込んでしまったティニーにイシュタルは言った。その言葉に、ティニーの顔に笑みが広がる。
 「間に合わせるから」
 イシュタルはつぶやいた。ティニーは母の危篤を知らない。
 馬車は飛ばせるだけの速度で進み、日が傾くころ、森を抜け、館に至った。
その館は莎草離宮と呼ばれていた。小さな湖畔の森に囲まれた静かな城であったが、常に土と石の湿ったにおいがするような、そんな場所だ。
 イシュタルにとって誤算だったのは、離宮に先客がいたことである。父であった。数日は留守にしているはずだったのに。しかし、父がここにいるということは、叔母危篤の噂は本当なのだろうと思った。
 ティニーを母親に会わせるはずが、イシュタルとティニーはブルームに迎えられることになってしまった。この父という壁を突破しないと、叔母には会えない。
 「勝手なことをする」
 ブルームは言う。イシュタルはティニーを半ば背にかばうような恰好で、父と対峙している。
 「はい。でも、必要だと思いました」
 「どっちが言い出したのだ? イシュトーか? お前か? ……訊いても答えんだろうが」
 「どちらでもいいことです。どちらでもあるし、どちらでもありません」
 「そうか」
 叱責を覚悟したが、ブルームは特段怒りを見せるところはないのが意外であった。
 「それより、ティニーをおばさまに会わせてください」
 イシュタルは言う。
 「どこから聞いた」
 「……」
 「これにも答えんか。まぁいい。ティルテュには会わせることはできん。ティルテュは死んだ。残念だったな。遅かったのだ」
 背後のティニーが体を大きく震わせたのがわかった。イシュタルはまったく動じず、言葉を返した。
 「それはうそです」
 「……嘘だと申すか」
 「おばさまが亡くなって動じるところのないような父上ではありません」
 「もしそうであったとしても、わしとてそう何日も嘆きはせん。ティルテュが死んでもう三日だ。まったく、イシュトーもお前も、どれほど古い情報に踊らされているのだ」
 「それもうそです」
 「たいした自信だ」
 「私の中のトードの血がそういうのです」
 「お前の中のトードの血? そうか、そうだな。お前の中のトードの血ならそう言うかもしれん」
 言うとブルームは右腕を高く上げた。その瞬間、魔道の光が彼女の目をくらませて、イシュタルはぱたりと倒れた。杖術を喰らったのがわかる。意識が遠のく。
 「心配するな。眠らせただけだ」
 その言葉は、おそらく自分が倒れて驚くティニーに発したのだろう。遠のく意識のなかで、切れ切れに、父の声が聞こえる。
「大それたことを。まぁ、子供らしい浅はかさともいえるか」
 その先の記憶は途切れている。
次の記憶は見慣れぬ天井であった。窓の外は明るい。一夜が明けているらしい。
魔道で眠らされた彼女を、父は彼女に従って来ていたラインハルトに託し、そのまま離宮の一室で休むように言われたという。ラインハルトによると、彼も父からの叱責を受けなかったそうだ。
 「ティニーは? おばさまは?」
彼女は矢継ぎ早にラインハルトに質問をした。
 「落ち着きください、イシュタル様」
 「間に合った? ねぇラインハルト、間に合ったの?」
 「落ち着きください」
 「ティニーはどこ? おばさまには会えた?」
 「おそらくは」
さらに問おうと思った瞬間、「入るぞ」と声がして、扉が開いた。そこには父がいて、ラインハルトに席を外すよう言った。
 父はイシュタルに言った。この世には見ないほうがいいことがあるということ。ティニーはティルテュに会ったということ。しかし二人を会わせたことは、イシュタルとイシュトーの自己満足でしかないということ。この館にティルテュの魂はないということ。いまヴェルトマーに里帰りしているヒルダはおそらくそのことを喜ぶだろうこと。そして、その喜びに水を差してはいけないということ。ティニーは今眠っているということ。もうしばらくゆっくりとしてからともに城に戻れということ。自分は先に戻るということ。そして最後に言った。
 「それでも、今回お前とイシュトーのしたことは間違ってはいない」
 そんな言葉を残して、父は先に莎草離宮を発った。
 父が離宮を去ったあと、イシュタルはラインハルトに、叔母に自分も挨拶をしたいと告げたが、ラインハルトは少し困惑した様子で言った。
 「イシュタル様、ティルテュ様は……」
 「亡くなっているのはわかっているわ」
 「いえ、イシュタル様。ティルテュ様は、生きておいでです。おそらくですが」
 そんなはずない。父は言った。「この館にもう魂はない」と。
 「イシュタル様。この世には、見ずに済ましたほうが良いものがございます」
 ラインハルトは言った。イシュタルは彼の顔をまじまじと見た。そして見ずに済ましたほうが良いものがもしこの館の中にあるなら、それを生み出したのは自分の母親なのだろうと思った。
もともとティルテュとティニーは二人でこの離宮にいたのだが、ヒルダが頻繁に訪れては二人に言葉に尽くしがたい行いをしていたことをイシュタルは知っていた。見かねた父が、ティニーだけは引き離して手元に置いていたのである。父にも叔母は救い難かった。家名に泥を塗った咎人だからそれは仕方のないことと、イシュタルも受け止めていた。
いま叔母はどうなっているのだろう。聞けばおそらく、ラインハルトは「それは知らないほうが良い」と言うのだろう。ティニーは会ったと父は言ったが、彼女はいったい、何を見たか。
叔母が咎人だとして、しかし罪とはこのように贖わねばならぬものだろうか。

 ティニーが目を覚ましてから、イシュタルはティニーを連れて館の周りを散策した。おそらくはティルテュが日々を窓から眺めて過ごしたであろう湖畔の風景は、ひたすらに静かである。子供の目には楽しいものではないが、莎草ばかりが続くように見える湿った景色は、どこかおとぎ話の世界のようでもあった。
 「ティニー、ティルテュおばさまには会えた?」
 問うとティニーは「はい」と答えた。
 「お話は、できた?」
 そう問うと、ティニーは足を止め、地面をじっと見つめた。そして、肩を震わせて、涙を流し始めた。イシュタルは膝をついてティニーを抱きしめた。
 「ごめんなさい、ティニー」
 濡れた土と青い草のにおいがする。湖面は鏡のように、湖畔の木々を映していた。
 「ごめんなさいね」
 体を震わせ、声なくティニーは泣く。この振る舞いは、声をあげて泣けばヒルダが叱責するために身についたものであることをイシュタルは知っている。イシュタルはだ抱きしめたティニーの震える肩越しに、莎草離宮を仰ぎ見る。並んだ窓の向こうにもう叔母の魂はないという。ではその身体は、まだあるのだろうか。

 さてティニーの中にその遠い日の記憶がないことは、喜ばしいことなのだろうか?
 「馬車で向かっている時のことは覚えているのに、おかあさまに会ったのか、何を話したのだとか、思い出せなくて……イシュタル姉様は覚えてらっしゃいますか?」
 ティニーは言う。イシュタルはしばらく黙っていたが、「館に行ったことは覚えているけれども、ほかはあまり覚えていないわ。湖があって、あなたと散歩したと思う」と言った。
 「散歩……たしかに姉様とお散歩をしたような気がします」
 ティニーは首をかしげて記憶を追うようなしぐさをみせた。
 世の中には見なくてはよいものもあり、また、思い出さなくてもよいものもあるのだろう。ティニーがあの日何を見たのかをイシュタルは知らないままだ。
 しかし、やがてティニーはあの日のことを思い出すのではないかと、そんなことをイシュタルは思った。彼女が何を見たかを知らないイシュタルは、それを思い出すことが、どういう意味を持ちうるのかは分からない。わからないということにしておこう。
 ティニーは遠くを眺める目をして首飾りの鎖を指で弄んでいる。どこかうっとりと、母の記憶をたどっているようだ。
 莎草離宮は、今はもうない。咎人の死後、火が出て廃城となっている。


おしまい