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弟の結婚(エーディンの話)

 アンドレイの結婚はユングヴィにとってどのようの意味を持つのか、エーディンにはよくわかっていない。
 姉の不在がこの家にもたらしたものはあまりにも大きい。ひたすらに姉の生存を信じ待ち続ける父。その父を立てつつも、姉が戻らないことも見越して蠢く臣下の派閥。弟の母(父の妾である)は出たがり人ではなかったが誰かは野心を吹き込む。それを牽制していたであろうエーディンの母、つまり父の妃はすでに他界している。エーディンは聖堂で姉の帰りを祈り暮らした。姉の帰還、それだけ考えていればよかった。いや、それ以外を考えるのが嫌だったからだろうか、と、その頃の自分を思い返してエーディンは思う。優しかった弟はその心の中にどんな獣を飼い太らせていたのだろう。

 「エーディン様、いかがでございましたか」
 ミデェールに問われて、エーディンは答えに迷う。
 「……そうね、優しそうな方だと思うわ」
 ミデェールが問うたのは弟の妻となる人と初めて会った感想である。のちの義妹となる人である。結婚が決まり正式な挨拶の段になって初めて彼女はその女に会ったのだ。公家を継ぐかもしれない弟の妻はエーディンよりもいささか年下の、貴族の娘である。選びに選び抜かれた「公国内の派閥に波風を立てない令嬢」であるとのことだ。聖戦士の血を継ぐ姫を望むアンドレイ派の願いを父は容れなかったが(それは過ぎた願いである)、あまりに身分が低い姫でもよくない、進化の派閥どちらにも大きな不満の不安のないように、ということで、かなりの熟慮を重ねたらしきことはエーディンにも分かっていた。この婚礼においてら当人ふたりの意思も要望も気立ても考慮に入れられていない。二人ともまだ子供らしさを残しているのだが、家のために血の継承の最低限の確保にこの婚姻は不可欠なのであった。
 「すこし緊張していたよう。早く慣れることができると良いのだけど、なにができるかしら」
 ミデェールは少し考えている。何ができるのか考えてくれているのかと思ったが、彼は言った。
 「ところで、式には各家公子がご出席になるとのことですね」
 「この前の手紙でアゼルから会うのが楽しみだと。レックスは来ないのご残念だと書いてありました」
 「ドズルからはダナン様ですね」
 「みなさまに楽しんでいただけるようなおもてなしができるとよいけれど」
 ブルームの婚礼の式にはアルヴィス卿もランゴバルド卿も来ていた。エーディンも父とともに出席したのもである。他の公子も多く参列していた。
 このあたりの差は当然のものであった。
 
 「エーディン様はいつも聖堂で祈り暮らしておいでだと、アンドレイ様からうかがっております」
 と、弟の婚約者は言う。彼女に城を案内しがてら、聖堂に立ち寄り二人でウル神に祈った折のことである。
 「祈り暮らしてだなんて……ここは落ち着くから」
 「姉君のご帰還を常に祈っていると」
 「わたしにはそれしかできないから……アンドレイには感謝しています。真面目な子で、姉上がいなくて、わたくしにはできないことを必死にやってくれています。バイゲリッターを率いていくのは自分と根をつめているから、そんな弟を助けてあげてね」
 「はい」
 「優しい子なの」
 「はい」
 そして少し間をおいて言う。
 「私は、アンドレイ様のお役に立てるよう尽くしたいと思います」
 アンドレイのために、とそう思ってくれる人が嫁いでくることは喜ばしいことと思われた。思えばエーディンはこの聖堂で姉の無事の帰還以外を願ったことはない。この時でさえ、弟と弟の伴侶の幸せを祈っていなかった。
 
 父は姉の生存を全く疑っていなかったが(ウルの血がそれを知らせてくれるのだと言っていた)、それでも「姉が戻らないこと」は想定しなくてはならない。ユングヴィの家は絶やしてはならぬ。その点において正妃の子たるエーディンに何かの期待はされていたであろう。しかしエーディンは祈り暮らしていたかったし父はエーディンには好きにさせてくれていた。それが父の優しさであったのかどうか、エーディンにはわからない。エーディンの意思は尊重する父がアンドレイのそれは顧慮しないことをエーディンは疑問もなく受け入れていたが、後年その頃の自分を彼女は思い返しては嘆いた。
 あの頃はそれが当たり前だと思っていたが、自分がもう少しでもアンドレイの立場と気持ちを思いやることができたなら、何かが違っていたろうか、と。いや、何も変わらなかったかもしれないが。

 結婚式自体は滞りなく終わった。先のフリージのブルームの挙式に比べればはるかに慎ましいものだが、この家の真の継承者は不在の姉であるのだからそのようなものだろう。エーディンとしては、シグルドともゆっくり話せたことがよかった。アゼルが不慣れな様子でヴェルトマー公の名代を務める姿が微笑ましいと思った。大役を終えたアゼルはもしレックスがいたら揶揄われたろうからいなくてよかったなどと言っていたが、そんなことはないとエーディンは思う。次会えるのはいつかしら? レックスの兄君の時はティルテュも来るんじゃないかと、そんな話をした。皆で会えたら楽しいだろうとエーディンは思った。
 賓客たちが全て帰った後には「家族」が残る。お互いのここしばらくの多忙を労いあう。厳かな聖堂は季節外れの寒さで、父にはその寒さが堪えたようだ。「しかし寒さには参った」と何度も繰り返した。
 「素敵な式でした。姉上にも見ていただきたかった」
 エーディンは言った。アンドレイはぴくりと眉毛を震わせた。花嫁は長い睫毛を瞬かせた。
 「アンドレイ、これからもよく励めよ」と父が言い、「はい父上」と弟が答えた。エーディンは父と弟のやりとりを頼もしく思いながら聞いていた。
 それは幸せな日々であったのか、それとも小さな綻びを見逃していた愚かな日々であったのか。

 あの時の自分は祈り暮らしていればよかった、と、エーディンは思い込んでいたが、それは多分間違いだ。父と弟の不和の種はあったのに、自分はそれを不和とも思わず、当たり前のことだと思っていた。弟の結婚の日ですら自分は真に弟の幸せを願っていなかったのではないか。姉が見たら喜んだろう。姉の式だったどんなものだったろう。姉は今どうしているだろう。姉は、姉は……。
 もし自分が少しでもアンドレイのことを考えられていたら、何かが違っていたろうか? それはわからない。時間は戻らないから考えても仕方ないのだとわかっているけれども。