聖戦のおはなし③ 8/12

前回の続きです。今日はひとつだけ。

ヘズルの軒

レンスター王は人柄良く、キュアン王子もその息子らしい方だと彼女は思う。王宮は明るい。北トラキアのいくつかの王家の人々にも、やはりどこか、北トラキア気質のようなものはあったのだろう、朗らかで明るい……と他国に嫁いで改めて彼女は故郷のことをそんなふうに思った。
「大丈夫か」
夫にそう声をかけられる。自分は大丈夫なのだろうか? 確かに気疲れがひどいのは確かだ。
彼女はこの日初めて、アグスティに勢揃いしていたアグストリア諸侯連合の王族たちと会った。厳めしい空気の中で、ずっと品定めをするような視線にさらされ続けた。初めて会う人たち。かけられる言葉になんと返せばいいのか、何ひとつ間違ってはいけないという緊張。威厳に満ちたイムカ王は、彼女の夫、騎士の中の騎士が忠誠を捧げるにふさわしい王に見えた。しかしシャガール王子は……あのような素晴らしい王としても王子を育てるのは難しいのだろうか。レンスターは幸いな国であったとぼんやりと彼女は思った。
「今日言われたことは、気にしなくていい」
夫はそう言った。「今日言われたこと」とはなんであろう、たくさんありすぎてわからない。揶揄もあった。駆け引きもあった。意地の張り合いに利用されているのだなと思いもした。不在の義妹に比べられもした。夫は出来うる限りそのような言葉を牽制してはくれていたのだが、全ては防ぎきれない。そしてなにより、シャガール王子は随分と、「ノディオンのエルトシャンの妻がこの程度の女であること」が楽しくてたまらないという風だった(ように彼女には思えた)。かけられた言葉を気にしないことは出来るだろうか。しかし良かったことを拾い上げることはできる。
「今日のことは忘れはいたしません。イムカ様にあのように優しく迎え入れていただきました」
そう言うと、夫はすこし黙ったあとに「今日は苦労をかけた。おそらくこれからもかけるだろう」と言った。しかし宮廷などそのようなものだと割り切ることぐらいは彼女にはできる。とはいえ北トラキアはなんと長閑で光に満ちていたことか。今は光どころか、ここまで来る道中も、そして今も、おそらく明日も、このところのアグスティは長雨に閉じ込められたような天気だった。
「イムカ様が、しばらくは雨だろうから、帰りにへズルの軒を見ていくがいい、と、おっしゃいました」
それは彼女が王から投げかけられた謎の言葉であった。
「そうか、王がそう仰ったか」
夫はそれを聞くとすこし嬉しそうである。アグスティの王城の中のとある軒がそう呼ばれているのだと夫は言った。そこだけ軒から落ちる雨だれの音が違うのだと言う。あまり強い雨が降っているといけない、良い具合の雨が良いのだと言う。確かに今日明日はいい雨かもしれないと夫は言う。その軒下に立つことを許される人も少ないし、軒に立った日に良い雨が降りその雨音を聴けるものはさらに少ないのだと。
わたくしは、アグストリアに歓迎されているのかしらん。
その雨音を夫の隣で聴くことができたなら、諸侯たちのどんな言葉も王子の揶揄も、もうどうでも良いだろう。そして今回のこのアグスティで過ごした時間は生涯彼女の心に幸せな記憶として残るだろう。