ひとりではしる(戦後のユリアの話)

 城の広い庭をユリアはひとり走り走り斜めにつききった。先程彼女は何かを見たのだ。白い影が南東の角にある大きな柳の木の下でふらりと揺れた。
 ユリアはそれを母だと思った。そんなはずないと分かっていたのだが。
 柳の元に至ってみるとそこにはやはり誰もいない。風が吹いて、ゆらゆらと枝葉が揺れている。ユリアは右を見て、左を見て、それから空を見た。息が上がって苦しい。枝の向こうに、太陽が輝いている。母はいない。胸が潰れるように苦しい。
 そんなユリアから少し距離を置いて、従者が控えていた。あぁ、どうして、わたしはひとり。ひとりなのに、ひとりになれもしないのだ。

 セリスとその妃とその子どもたちがいまやバーハラの主人である。ユリアは主に聖堂で祈る。セリスたちはユリアの大切な家族である。家族であるが……この宮殿に残るユリアの「家族」の記憶はあまりに深く、柱に床に天井に染み付いている。庭の草花は少しずつ変わる。木々は変わらずそこにあるが、少しずつ大きくなっている。その木陰で自分が過ごした幸せな時間。偲んで語る相手はいない。そして時々幻を見る。白い幻、赤い幻。追いかけてもつかめることはない。

 セリスははっきりは言わないが、どうやら母の魂がシグルド公と共にあるという確信を持っているらしい。それはそうだろうとユリアも思う、
ことのしだいを知ってしまえばそうなる。だからユリアが宮殿で見る白い影を掴めるはずがないのだ。母はここにはいないのだから。

 ユリアには好きな人がいた。いや、今もいる。彼は今は別の国で別の暮らしをしている。彼がバーハラに来た時は会って語り合うこともする。彼もまだ自分のことを好きでいてくれているだろうこともわかる。
 ユリアが皇女ユリアであることがわかっても「そうだったんだ」で済ませた彼、再び巡り会ってから、蘇った記憶のことをひたすら聴いてくれた彼、バーハラで祈り過ごしたいというユリアの思いを大切にしてくれた彼。幻を追いかけてひとりになれないままにひとりであることを思い知らされると、彼女の心のは痛切に叫ぶのだ。
 彼に聞いてほしい。
 彼女の「家族」の話、この宮殿に染み込んでいて、物の影から時々転げ出る思い出とひとつひとつ、共に偲べはしないけど、「そうだね」と言ってくれる気がする。セリスには話せないから、ではなくて、彼に聞いてほしい。彼女の大切な家族の思い出。共に幻を追いかけてくれるかしらん、そうしてくれると嬉しい。二人で走れたら嬉しい……。

 「ユリア、どうしたの」
 柳の下でどれだけ時が過ぎたのか、赤い夕日がが西から眩しい。セリスが様子を見に来たようだ。だれかがユリアの様子がおかしいと伝えたのかもしれない。心配そうなセリスの顔を見て、ユリアは自分が涙を流していることに気づいた。
 「セリス様、わたし」
 ユリアは顔を上げて言った。
 「会いたい人がいます」
 言うとセリスは少し驚いたような顔をした。
 「一緒に生きたい人がいます」
 言うとセリスはやっぱり少し驚いたような顔をした。けれどもすぐに笑って言った。
 「よかったよ。ユリアがそれを言ってくれて、よかったよ」
 セリスが笑ってくれたので、ユリアもつられて微笑んだ。