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#75. ムスカちゃん *mū- [mosquito/midge]

庭いじりをしていると必ず蚊に刺される。そんなときでも語源が気になって仕方ないのは病気だ。mosquito の語尾 -ito はスペイン語の指小辞(diminutive)だ。普通名詞だけでなく固有名詞にもついて「~ちゃん」と言うときにも使える。スペイン語の mosca は ラテン語の musca から来ている。「mosquito」とは「ムスカちゃん」のことだったのだ。

mosquito という語が入って来るまで「蚊」がブリテン島にいなかった訳ではないだろう。現代英語で midge という語があり mosquito と 区別して使われているようだが、mosquito という語が入って来るまでは midge が小さくて飛ぶ虫全体を指していたのかもしれない。古英語 mygg, myċġ に遡る midge はゲルマン系、mosca から来ている mosquito はイタリック系の語彙だ。どちらも共通の印欧語根 *mū- にたどり着くようだ。 小さい虫が飛ぶ擬音語だったのだろうか、ム〜は、プ~ンとブ~ンの間の音にも聞こえなくもない。

fly も 同じように羽が生えている飛ぶ虫を指している。「fly = ハエ」という訳語が固定してしまっているが、fly は もともとハエという種のみを指していたのではなく、飛ぶという動詞 fly とは同語源である通り(印欧語根 *plewk-)飛ぶ虫全般を指していたと思われる。dragonfly (トンボ) や butterfly (チョウ) など、特徴的なものには別途名前が当てられたが、最後に残ったのが「ハエ」だっただけなのだろう。昔の日本語で病は風邪という悪魔が引き起こしていると考えられていたので「風邪」という病名がついたが、原因が分かったものは別途名前がついていき、最後に残った有名ではない病原体によって引き起こされる病気群を症状からまとめて「かぜ」と今でも呼んでいるのと同じだ。

wasp, bee, gnat, midge, fly はいずれも古英語からある単語だ。羽がありブ~ンと飛ぶ虫の中で大きなもので針を持つもの、そのなかでも体がツルツルで狩りをするものが wasp。一方、体にふさふさした毛があり専ら蜜を集めているのが bee。それより小さい刺すものが gnat。それよりうんと小さくて刺すものが midge。刺さないどうでもいい残ったものが fly...ということなのだろうか。gnat と midge の意味の区分は昔は曖昧だったのかもしれない。gnat の古英語の形 gnætt の意味を見ると midge も出て来るし、midge の古英語 myċġ も fly, gnat, mosquito, midge を含むようだ。

そこへ16~17世紀に gadfly や mosquito という語が登場する。では gadfly (アブ) を指す語がそれまでなかったのだろうか。gadfly は horsefly とも言うようで、中英語で horse fliȝe という語があったようだ。butterfly も古英語では buterflēoge という語があったので、古英語時代にも 口語ではgadflyかhorseflyに相当する何らかの単語 (hrossflēoge←勝手に造語) はあったのかもしれないと勝手に考えてみた。こういう虫は地方によって独特の言い方があったりするし、公文書に載りにくく統一されにくかったのではと想像する。

問題の mosquito だが、なぜスペイン語から入って来たのだろう。大西洋を挟んで新大陸と行き来するようになり、新種の蚊と遭遇したからだ、という説を挙げるのはいささか性急かもしれない。だが、実際に新種と遭遇したか否かは別にして、それまでと違った何等かの視点が発生したからこそ新語が取り入れられたはずなのだが、それは何だったのか。その当時の人と会話してみたいものである。

mosquito は3音節になるので略して(オーストラリアなどで特に子どもたちが)mossie /mɒz.i/ というが、指小辞 -ito を外した上でまた 指小辞の-ie をつけている。冒頭で触れなかったが、ラテン語 musca の意味は「fly」だ。印欧語根は *mū- と推定されているが、古代ギリシャ語では μυῖα (muîa) で、それに恐らく指小辞がついた形に μυΐσκη (muḯskē) という語があるようだ。それがラテン語 musca に影響したとしたら、この語の周りでは古代も現代も指小辞がついてまわっているようで面白い。小さい虫を指す語なので当然なのだが...。


飛ぶ虫周りの語彙(wasp, bee, fly, gnat, midge, mosquito, moth...)は、言語によって指す範囲が微妙に異なるのでいつか整理してみたい。

日本語では「ハチ」とひとくくりにしているが、英語では狩りをする「カリバチ」を指す「wasp」と、密を集める「ハナバチ」を指す「bee」に分かれている。ヒンディー語でも「ハチ」全体を指す語がなく、「bee ハナバチ」の中の「bumblebee マルハナバチ」を指す語「भौंरा (bha͠urā)」が独立してある一方、「ミツバチ」は「मधुमक्खी (madhumakkhī) 」(字義的には "honey-fly"、मक्खी makkhī は flyとbeeの両方を指す)となっていたり、wasp を指す語が ततैया, बरैया, गंधेली など地方によって様々な呼び名があり統一的でなかったりする。

ちなみに、flyの मक्खी (makkhī) や mosquito のमच्छर  (macchar) は m-で始まるが印欧語根 *mū- とは関係がない。かと言って印欧語族の祖地に蚊がいなかったことにはならないと思うが…。

どんな種が、当地の民族集団とどう関わってどんな文化を生み出して来たかによって名前が変わる様を観察できて面白い。特に絵本の翻訳では、翻訳先の言語でなじみのない動物や虫の名前だったりすると、原語の意味に忠実に訳すと読みにくくなるので、分かりやすさとなじみやすさを優先させて、厳密には意味が異なるが意訳してしまうのか、悩むところである。

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