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カンニングと自分の醜さと

ここモザンビークでは、テスト中にカンニングやコソコソ話は当たり前。テスト時間終了後にも、他の人からヒントをもらって手直しする生徒もいる。話には聞いていて、そんなもんだろと思ってたけど、、、いざ目の前にするとこんなにも腹が立つ自分がいる。テストは自分の実力を試すもの。一夜漬けでもなんでも覚えたことを試す場所。それなのに他の人のを見てしまったら意味ないじゃないか。

わたしは初等教員養成校で活動している。つまり生徒は卒業後に小学校の先生になる。将来先生になる人がカンニングが当たり前なんて何だか許せない。

テスト実施中にイライラして、声を荒げてしまう。「話してはだめ」「次話したら点数とるよ」「終了。いますぐシャットダウン」などなど、声を低くして言ってしまうのです。こんな風に腹が立つのはやはり私が日本で育ってきたからなのか。自分がこんなにも日本人だということに驚きだ。

自分の当たり前と違うものに出会ったら、そこには異なる前提がある。

そして、声を荒げてしまう自分が醜くてしょうがない。カンニングをする生徒たち(日本ならば全員カンニングといえる)は悪気があってやっている訳ではないから、怒ること自体がズレてるんだと思う。テストとは何のためにするのか、カンニングの何がいけないのか、そもそもそれを言わなきゃいけないけど、これまた私の言葉が拙いばかりにいうことが出来ない。声をあらげて怒るほうがずっと簡単なポルトガル語。

あんまり細かいこと気にしないし、いつも何とかなると思って構えてるほうだけど、不正は許せない自分がいることに今日気づいた。いかにカンニングをさせないようにするか、テスト内容・実施方法など見直して、公正明瞭なテスト結果を出せるようにしたい。