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フランツ・シューベルト 2014年リサイタルプログラムへの覚書

「フランツ・シューベルト」
次の講義へむかうため、一人廊下を歩いていた。頭に大きなヘッドフォン、鞄にポータブルCDプレイヤーをしのばせて僕は音楽を聴いていた。ずいぶん昔、大学の一年か二年の頃。いつもと変わらない午前のひと時。
しかしある瞬間、僕は立ち止まる。歩くことができなくなる。僕が聴いていたのはシューベルトの交響曲ロ短調、俗に「未完成交響曲」と呼ばれる曲の第一楽章だった。

当時僕は見境なくたくさんの音楽を聴いていた。「音楽の秘密」を知りたくて片っ端から手をつけた。モーツァルトもストラヴィンスキーもいっしょに聴いた。もちろん僕はそれ以前にモーツァルトの「ジュピター」やベートーヴェンの「運命」に夢中になっていた。その堂々とした佇まい、音楽が構築されていくプロセスに胸を躍らせ、巨匠たちの偉業に感動していた。

しかし、シューベルトのそれは何かが違っていた。これは「かなしみ」と言ってしまえばいいのだろうか。
何か今までに感じた事のない「声」がきこえる。それからずっとシューベルトは僕のそばにある。

それから後、ウィーンで勉強をする機会を得た僕は、レッスンにシューベルトのソナタのひとつを選んだ。ウィーンは彼が生まれその生涯のほとんどを過ごした街である。9月のウィーン、空気はきらきらと光り輝いている。街を歩くと自然といつもイ長調ソナタのはじめのメロディーが口をついて出た。シューベルトがこの石畳をたくさんの音楽を胸にため込んで歩く姿を想像しながら、僕は彼の歌をうたった。

レッスン初日、教授にシューベルトのソナタをもってきたことを伝えると、彼女は僕にたずねた。
「シューベルトが好きなの?」
「はい、好きです」
「わたしも好きよ」
そう言うと彼女は見えないナイフを自分の胸に突きたて、恍惚の表情をうかべ、次の瞬間僕に笑いかけた。僕も笑いかけ、うなずいた。それだけで彼女がシューベルトの音楽を深く愛していることがわかったし、僕の気持ちも伝わった気がした。この人もシューベルトの「声」をきいている。それはとても素敵なレッスンだった。

ここで僕がシューベルトの音楽についてたくさんの言葉を使ってその素晴らしさを「説明」したところで、それは無意味に思え、虚しささえ感じる。あるいは他の偉大な作曲家たちの音楽についても同じことが言えるかもしれない。言葉で容易に「説明」できてしまう音楽はたいした音楽ではないのだ。そこでしか表現し得なかった何かがある芸術にこそ人は熱心に鑑賞し、演奏し、そうして長い歳月を生き残っていく。シューベルトの音楽は紛れもなくそのような芸術作品のひとつだ。

彼の作品はときに奇妙に響き、冗長的で散漫に感じられ、音楽的な体裁という見方からすると必ずしも整ったものではない。

だがしかし、人の感情はいつだって揺れ動き、浮遊し、さすらっている。それは決まりきった形式の中に押し込められるものではない。シューベルトは音楽をかくとき、自分のその感情を音楽的な外見上の均整の中に閉じ込めようとはしなかった。
いくら長大になろうとも、規則に反しようとも、彼にはその音が必要だった。曲をかくことは、シューベルトにとっては名声を得るためのものではなく、自分自身の「声」を発するためのものだった。

ある時僕は本の中でシューベルトが書き残した「ぼくの夢」という詩的な散文を読み、驚きとともに涙を抑えることができなかった。やるせない孤独をひそやかに淡々と自分自身にむけて綴ったその告白は、彼の音楽に鳴り響いていたものとあまりにも合致していたからだ。

これは非常に「個人的」な音楽だ。

本当はひとりで、静かに、大切にしまっておくべきものかもしれない。

しかし、これから先シューベルトの音楽が聴かれなくなることは決してないと僕は思う。人が人として存在しえているのは、自身をみつめながら、いつでも説明できない「何か」を抱え、問い続けているからだ。
シューベルトの音楽はその「何か」の結晶として、いつまでもそこにあり続けるだろう。

2014年11月 居﨑 圭

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