見出し画像

『逃げ恥』を見て考えた/2021/1/2

タイトル考えるのがいよいよ面倒臭くなってきた。

『逃げるは恥だが役に立つ ガンバレ人類!新春スペシャル!!』がちょっと残念だったという話をします。

ふだん私はコンテンツについてのネガティブな感想はあまり書かないようにしています。作り手やファンが見たら傷つくだろうから。でもこの違和感を言語化することには意味がある気がするのでします。 

私は昨年の再放送で初めて逃げ恥を見たニワカだし、原作は読んでいません。的外れなことを書いている可能性があります。こういう感想もあるよ、というだけ個人の好み、意見であり、批判ではありませんのでご了承ください。

ニワカはニワカなりに今回のスペシャルドラマはかなり楽しみにしていた。しかし期待値が高すぎたのか、見ているうちに違和感がどんどんつのって、楽しめなくなってしまった。Twitterを見てみると、今作は前作以上に賛否両論分かれる作品だったようだ。

色々考えたけど、私が違和感を覚えた原因は、「メッセージの詰め込み過ぎ」により、「感情描写」や「メッセージの伝え方」がおざなりになったことだと思う。

ちょうど最近、品田遊さんのウロマガを読んで物語の「メッセージ性」について考えたことを思い出した。

・お話にとっての「メッセージ性」とは何か、という問題は難しい。なんのメッセージ性も祈りもなく物語を作ることは不可能だが、だからといって、作者の中ですでに答えが出きってしまっていることを物語に混ぜても溶け切らない。うまく説明できないけども、すぐれたメッセージ性を発する作品には、常に「迷い」もセットで織り込まれている気がする。

 
『居酒屋のウーロン茶マガジン』「つごもりの銀杏」2020年12月30日の日記より。有料部分ですが、過去の記事に部分的な引用であれば可との記述があったので引用させていただきました。問題があれば削除します。

連ドラ時代はこの「迷い」が丁寧に、丁寧すぎるほどに描かれていたと思う。

今回は短時間に色んな「メッセージ」を詰め込みすぎたせいか、はじめから「メッセージ」は「正しい」もので、そこに「迷い」はなく、善悪が決まりきっていた。旧時代的な価値観のプロジェクトマネージャー・灰原を平匡さんや沼田さんが論破するシーンなんか象徴的だ。

ところであのシーンなんだったんだろうね。
これはもう本当に私の好みの話でしかないのだが、私は『スカッとジャパン』が大嫌いだ。全然スカッとしない。1回しか見たことないけど。嫌いなものをわざわざ見る趣味はないので。上述のシーンはスカッとジャパン的なものを感じたのでかなりもやもやした。

正論で一方的に相手をやり込めるのは議論でも何でもない。それは価値観の押し付け合いだ。連ドラ時代の逃げ恥は「折り合いをつけること」、「わかりあうこと」を大切にしていた記憶があるんだけどな。

そもそも、逃げ恥は「メッセージ性が強い」作品だと言われているけれど、「メッセージ」って何なんだろう。

以前の日記でも触れた古橋悌二の言葉を再び引用させていただく。

逆にアクティヴィストからみたらなまぬるいって、「もっとメッセージを明確に、啓蒙的にしないと直接行動にむすびつかない」って言われたりとか。それだけだとやっぱりシンポジウムとかデモ・プロパガンダのほうが有効なんですよ。それも重要なんだけど、それだけでは伝わらない、従来のコミュニケーションの方法では伝わりにくいとてつもなく複雑な心の内奥に、わざわざ入り組んだ複雑な表現形態をもってようやく触れるっていう作業―僕にとってのアートを信じてるんです

『メモランダム 古橋悌二』より。

今回、脚本の野木氏はメッセージをよりわかりやすく、明確に伝わるよう意識したらしい。

しかし、古橋に言わせればそれならばシンポジウムで、プロパガンダで、現代だったらTwitterで事足りてしまう。
もちろん、テレビでやること、出演者や作品の注目度の高さを踏まえれば有意義だろう。
だけどそれはアートではない。エンタメでもない。

私は前作にあった繊細で複雑な感情の機微、その表現が大好きだった。それがあったから、考え方も立場も違う登場人物に共感できた。

えーんえーん泣きたいのはこっちだーなんて感情描写とは言わないですよ。まああれは単に妊娠によるメンタルへの影響を描きたかったのかもしれないけど。

みくりさんも平匡さんもめちゃくちゃ理論派な人間だけど、その裏には人間らしい感情があった。登場人物全員が人間だった。

一方、今回、登場人物はただ「メッセージ」を代弁するだけの「キャラクター」で、言ってしまえば操り人形だった。苦悩はあれどどこかテンプレート的で、本来の「人間らしさ」が薄れている印象を受けた。

途中、人間の感情を求めるなら同じ時間帯に放送されてたララランドを見るべきだった?と思ってしまった。その点、コロナ疎開後のみくりさんと平匡さんのパートは感情描写が丁寧でよかったな。とてもよかった。

あ、もしかして、忙しない日々の中、コロナでやっと自分の感情に向き合えるようになったみたいな描写だったのか?

私にとっては妊娠や出産や育休など全てが遠い世界の出来事だから想像できないし共感しづらかったという側面はある。確かにある。現に共感できたのはコロナ禍のあれこれだけだ。

でも、「わからないことをわからせる」のが「メッセージを伝える」ということではないのか?

ここで言っておきたいのは、権利は主張すべきものだし、私は今回取り上げられていた主張の内容にはおおむね同意している。

しかし、悪い意味で2時間半に詰め込みすぎだった。ひとつひとつじっくり描いてほしかったな。

そうしないと、せっかくの主張も当事者が「わかる~!」と盛り上がるだけだ。もちろん、それでも意味はある。当事者は間違っていないと勇気づけられるかもしれない。でも、当事者でない人には「説教臭いな」で終わってしまう。もったいない。

Twitterでは「説教臭いと感じるのは現実から目を背けている」やら「わからない人とは関わらない方がいい」という意見が散見された。それじゃ何も変わらないじゃん。直接言われてもわからなかったことを、心に触れてわからせるのがアートやエンタメの素晴らしさであり、真の「メッセージ性」ではないのか。私はアートやエンタメに期待しすぎなのか?

全く違う作品だけど、リーガルハイはその点うまかった。ガッキー繋がりではあるね。古美門というキャラクターが最強すぎた。「勝利のためなら何でもする弁護士」という設定なら何言わせてもキャラクターから解離しない。堺雅人の演技力が化け物だというのもある。
そして、ど真ん中で正義を説く黛ちゃんとの対比があるから、一方的な論理で打ちのめされず、自分の頭で考えるきっかけになる。

私はリーガルハイ続編を今でも心待ちにしています。これが結論です。


以下は日記です。

ささっと初詣に行って

うまい中華を食べて

花札やって

バドミントンやって

鯛焼きを食べた。

のどかな日だったな。こんな日がずっと続けばいいのにね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?