幸せの定義、そして音楽へ

久々に人と繋がりたくなった。正確には、(文章を書くことを通じて)と続く。わざわざこういうくだらない書き方をするくらいには、自由に書くことに飢えていた。最近は物語を書くことにばかり頭を使っている。あれはキャラクターの奴隷をやっているにすぎない。ここには僕しかいない。辿りつくべきゴールもない。久々にnoteを開いて、そのありがたさを思い出した。

書くことは不幸になりやすい。言葉を選ぶことはそこにある何かに意味をなすりつけることだ。あるいはそこで選ばれた言葉の起源そのものが、あることに意味をなすりつけることなのだということを、最近は考えている。

というのは嘘で、僕がそんなことを考えているのは今だけだと思う。酒に酔っているからだ。僕は今SAPPOROの「グレフル専門三ツ星グレフルサワー贅沢ホワイト」の500mL缶を半分ほど開けた状態で文章を書きだしている。これが最近は気に入っている。

というわけで、僕は言葉を選ぶから不幸になっている。そういうふうにこの話は進んでゆく。

幸せになりたいとか思うから、それを幸せとか呼ぶから、幸せかどうかという問いが僕の中に生まれてしまう。これがさっき最初に書いたこと。あるいは何かある一定の状態を僕らは幸せと呼んだり書いたりするようになったから、僕たちはそれを識別できるようになってしまった。これが次に書いたことだ。(どうだ、読みづらいだろう。ややこしい指示語に立ち返るのが苦手な方には最悪の文章を書いてみている。文章を書く楽しさの一つはこういうことだと思う。この文章の主導権はすべて僕の中にあるのだ。)

そういう意味では、文章を書くなんて趣味は最低最悪なわけだ。僕が「文章を書くのが好きです」と言う時、僕は「この世の何事にもすべて意味を擦り付けていく作業が僕は好きです」と言っているのと同じだということになる。実際のところ、僕はそういう作業をしばしばやっている。しばしばっていぬっぽくて好きだ。

僕が大好きで親友の黒髪に緑と青の中間っぽいメッシュが入っていて黒ずくめの服を着がちな彼について(なお、ここでわざわざ親友とか書くことが不幸をもたらすことは先ほど説明した通りである)、僕は彼の書く歌詞をわざわざ深読みして別の形に構成し直す謎の作業を繰り返し行っている。これがまあよくないわけだ。なぜなら、音楽は文章とは違って幸せになりやすいからだ。僕は僕の幸せのために、僕と他者の中に本来出現させる必要のなかった幸せと不幸を生み出す趣味をやっている。まあそんなたいそうなもんじゃないけど。

音楽には意味がない。意味を説明できるのはあくまで言葉のフィールドにそれを拡張してからの話だと思う。音楽に意味がないのは、どこからが音楽でどこからが音楽でないのかを説明するときに悩むことからも明らかだ。僕はそれがうらやましいと思う。そう考えるとき、聴いた音楽の感想を書いて発表する授業(僕が小学生か中学生の頃、確かにあったはずだ)がいかにナンセンスで終わっているかということがよくわかった。それはむしろ国語の授業でやるべきことで、音楽を聴いて僕たちはyeahとか思ったり体を揺らしたりしてみたり心の中だけで何かを感じてさえすればよかったのだ。音楽を破壊するな。もしくは破壊の意思を持ってそれを楽しんだほうが良い。

本当は幸せとかいう言葉をそもそも作らなければよかったのではないか。僕たちは言葉を生み出すことで、形ないもの(たとえばそれは時間であったり、感情であったりすること)を他者と共有した気になれる能力と引き換えに、「ただそのようである」ことを失ったと思う。「ただそのようである」こととは、つまりここに書くことができない君のあの感情のことだ。君は自身のその喜びを「嬉しい」とかいう一言で説明「させられる」ことに怒りを感じないのか。僕らに語彙がないことなんて本質的な問題ではないのだ。それはお前が作った言葉じゃない。お前が選んだ言葉は本当にお前の中にあるその価値にふさわしいのか。よく見定めろ。それを説明しようするなバカ。エモとかチルとかBIGLOVEとか変なポエムとか書くなバカ。言葉を選ぶことすら本当は妥協でしかないのだ。どうせやるなら言葉は作らなければならない。感情に言葉なんてもともとないことにいつになったら気が付くんだバカ。お前のその感情は言葉で説明できるほど安くないんだバカ。僕たちは誰とも分かり合えやしないんだ。だからこそ僕たちは強い。それを悲しいとか言ってんじゃねえ!(ドン!!)

(バカって書きたかった。バカって書くと楽しい。バカだからだ。)

だから音楽なんて放っておいてやればいいんだ。僕みたいな最悪意味付け人類に残された最後のオアシスが音楽だ。まあそれを破壊しているわけですが。そういうわけで、幸せはきっと音楽のなかにある。それが音楽であるうちはね。あ、違うわ。幸せっぽいものは僕の中にしかないんだ。それを今、最もうまく引き出せる何かの一つがきっと音楽なんだと思う。こっちのほうが正しい。

ここまで書いて、僕は思い出したんですよ。僕がVRCにアップロードしている数少ないワールドで(というか公開されているのはこれだけ)、「Living will β music」っていうのがあるんです。僕の心音(ピンマイクを聴診器にぶっさして、無理やり当時の本物の心音を録音した)をビートにして作ってもらった音楽と僕の詩がなんかそれっぽく飾ってあるワールドなんですけど。人生がいつか音楽になったらいいねって感じで付けた題名だったんですよね(もちろん、遺書としての音楽=生きていること、の意を含む)。それが今日の文章で回収されてなんかよかったなって思います。

人生が音楽になるって、別にそれが無意味になるって意味で解釈するんじゃないわけです。BGMみたいに、普段気が付かないくらいの当たり前の日々が一番幸せだって、僕はここで書けるわけじゃないですか。

幸せの定義、そして音楽へ。20分間酒飲みながらあり合わせで文章書いているだけでこんな楽しいわけですから。

こうやってまた言葉を選び、日々を定義する。幸せだと思いたい。不幸だと感じたい。だからこれからも僕は書く。書くことは僕のためにある。これを読むあなたのためにある。

靄篠として書き始めてから3年経ったらしいよ。
僕は文章を書くのが好きです。

みんな生きてるかー?僕はここにいるよ。

2022.05.30 靄篠


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