11/7 深夜に食べたゆで卵が美味しかった

飯浜さんが昨日食べたゆで卵は、目黒部長が作ったものなんですよ。そう説明をすると、飯浜さんはなんでだよと不満そうな顔をした。食っていいのかと思ったじゃん。誰のかわかんねえし。彼はぶつくさとぼやいている。「部長が犯人探してましたよ。絶対自首したほうがいいっす」別にそんな事実はないのだけれど、僕は飯浜さんに適当を言うのが好きだった。まだあるからバレなくね?と笑う飯浜さんは、明らかに焦っている。10月の終わり、異常にデカいゆで卵が地球に落ちてから、もう2ヶ月が経とうとしていた。落ちた時には人もたくさん死んだけれど、別にもうそんなことを気にする人はいなくなってしまって、僕たちもこうして職場の休憩室で時間を潰している。デカいゆで卵の影響で地球の地軸がずれてしまって、気候がだいぶいかれている。外の気温は連日三十七度を記録している。飯浜さんは来年で三十七になる。だから前髪を、七三に分けている。「なんで部長はゆで卵を適当に置いとくんだよ」飯浜さんが七三の七と三を逆にしながら悪態をついた。そもそもどうして持ち主不明のゆで卵を食べてしまうのかが僕にはわからないのだけれど、別にたいした理由もないことは知っている。事情としては、ただ次の通りである。目黒部長は休憩時間になると、休憩室の電気ポットの中に、買ってきた卵を何個か入れる。水を加え、湯を沸かす機能を使い、中の卵を茹でる。そうしてできたゆで卵の殻に赤いマジックペンで「ぬ」と書いて、もともとそれらが入っていたプラスチックのパックへと戻し、共用の冷蔵庫へとしまう。別に自分で食べるわけでもなく、ただそのまま置いておくのだ。もちろん電気ポットも共用のものであるから、これを知っている社員はほとんど電気ポットを使うことはしない。飯浜さんはそれを知らないのだと思う。だからまさに今、インスタントコーヒーの粉を、ポットのお湯で溶かしている。「目黒部長って確か卵嫌いじゃん」コーヒーをかき混ぜながら、飯浜さんが言った。そうなんすか?と聞くと、そうなんだよと言う。僕はそれを知らなかった。飯浜さんは卵成分の含まれたコーヒーを飲みながら話を続けた。白身が駄目らしいんだよ。あんな怖い顔してる癖にさ。たしかに、白身が駄目な目黒部長の姿は、あまりよく想像できなかった。だがそうだと言うのであれば、そういうこともあろうかとは思う。人は外見によらないと、大人になってからもう嫌になるほど感じてきた。だから部長が白身を嫌うことくらい、先月に新卒の伊藤さんが社長のデカいゆで卵を無断で持ち出した罪で解雇されたことに比べれば、大した驚きもない。「降ってきたゆで卵ってさ、部長のとは違うんかな」飯浜さんはどう?という顔でこちらを見た。「でも「ぬ」って書いてなかったじゃないっすか」僕がそう返すと、飯浜さんはまぁそうかといって、椅子の背に寄りかかる。そして天井のほうを見て、「俺、部長だと思うんだよね」と言った。何でだよ、と思うけれど、僕は今度は何も言わなかった。少し間をおいて、後ろの扉が開く音がした。お疲れ様と声がして、目黒部長が休憩室に入ってくる。お疲れ様ですー、と僕たちは軽く会釈をした。飯浜さんがコーヒーをすする。部長は冷蔵庫を開けて、僕らのほうを向いた。「これ、食べていいからね」部長は冷蔵庫の中を指差して言う。体を倒して覗き込むと、さっきから話していた卵パックのことだった。「あぁ、うまかったすよ」「あ、もう食べたの?」「はい、昨日いただいちゃいました。うまかったす」そう会話を交わしたのち、飯浜さんは部長に処刑された。飯浜さんの頭部がごとりとテーブルに転がる。昨日のうちはだめだったのだ。僕は心の中で手を合わせた。終わりというものは、どうしていつも呆気ないのだろう。僕も気になっていることは、今のうちに解決しておこうと決意したのだった。「部長、ちなみになんですけど」部長が僕のほうを見た。「「ぬ」って、なんだったんですか?」僕が尋ねると、部長はそうだねぇと、少し考え込んだ。そして空中を指でなぞりながら、語り出した。「本当は「め」って書きたかったんだ。目黒だからね。でもなんか、色々考えてるうちに「ぬ」になっちゃうんだよね。だから全部だめかなって思ったんだ」そう言って寂しそうに笑う目黒部長の顔を、僕は初めて見たのだった。人生って悲しいですね。僕の言葉には、部長は何も言わなかった。異常にデカいゆで卵のことも、社長のデカいゆで卵のことも、きっと何かが違ってしまっただけなのだ。正しいことなんて誰にもわからないのだと思った。目黒部長はテーブルに腰掛ける。そうした途端、テーブルの天板が部長の体重を支えきれずにバッキリと折れた。目黒部長は床に叩きつけられて、嫌に鈍い音がした。見ると部長の頭部は割れた生卵のように広がっていた。同時に休憩室の床材にひびが入り、その隙間から、奥の鉄骨が弾け飛ぶのが見える。部屋が形を失うのがわかった。僕もそれに伴って落ちた。崩壊するビルの中を落下してゆく途中、飯浜さんの頭部が僕の横を通り過ぎていった。ワンチャン煮卵だな、と思った。僕はそれを見送り、彼のことが嫌いではなかったなと、改めて理解した。次に意識が戻ったとき、僕は瓦礫の中にいた。じんわりと後頭部に熱を感じた。割れたんだな、と思った。あの日落ちてきた卵がもしも生のままだったなら、何かが変わっていたのだろうか。そして僕は、薄れてゆく意識の中で次のことに気がついた。普通、ゆで卵の殻に書くなら「ゆ」にすべきではないのだろうか。生なのかどうか、割ってみないと分からなくなるからだ。だから僕たちよりももっと偉い誰かは、落としてみることにしたのかもしれない。そう思えば、なんとなく全部がわかったような気がした。ならば僕の死後、きっと次には地球が落とされるだろう。それが生なのかどうか、見届けられないことだけが、僕の心残りだった。あるいはどこに落ちるのかも、少しだけ気になった。

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