キューティクルイヌテール

最近僕は嘘みたいに清々しい気持ちで生きている。それが意味するのは人生がうまくいっているとか、心療内科に通わなくてよくなったとか、薬が減ったとか、給料が上がったとか文章が評価されたとか、まったくそういうことではない。相変わらず人生は何も変わらない。ただそれをどこか笑って見ている僕が居る。僕があまり文章を書けなくても、薬が減らなくても、うまく眠れなくても、人生に価値を感じられなくても、今の僕にはそのどれもが他人事のように感じられて、今はこれでいいんだと、僕は胡坐をかいて居られるのだ。今の僕にいつかのことなど、どうでもいいことだ。今を繰り返してゆくだけでいつか僕は死ぬ。だから今、不安はない。

彼と出会ってからまだ一年も経っていないという事実に驚く。僕が勝手に感動して、勝手に関わった半年だった。だんだんと、友達かどうかなんていうことはどうでもいいことだと思えるようになった。僕が言葉にした感情がその時そこにあった全てだ。僕は彼を尊敬している。そしてこれは初めて書くことだが、僕は内心、彼をライバルだと思っている。他人から見れば何を言っているんだという感じだろうが、僕はそれを恥ずかしいとか思わない。僕たちは最後まで同じ土俵で向き合うことはきっとないだろうけれども、オタクにはオタクなりの覚悟というものがある。そんな何の責任感もない高揚感を僕はこの一年弱のあいだずっと守り続けてきた。好きなものをずっと見て居られる以上に嬉しいことなんてない。

彼の音楽が人の心を少しずつ許してゆくと思う。音楽のことなど僕には何もわからない。ギターの練習を始めてから1か月ほど経った今でも手つきはあまり変わらない。でも今はそれでいい。揺れる身体の裏でピコピコ行ったり来たりするあの音が、跳ねるようでしかし丁寧に着地点を置いてゆくピアノが、絡まった糸をほぐしてゆくあの感覚こそが僕がそこに見た音だ。重力に従って底面に沈もうとする日々を回る乾燥機が巻き上げる。それで人生も何も変わりやしない。詰め込みすぎた屁理屈と寂しさがぐるぐると回るだけだ。それが一度舞い上がり、そしてもう一度落ちていくだけだ。世界に対してはそれは無力だ。だがそれが価値だ。僕はそれが好きだ。だから彼の音楽があることは嬉しい。

いつかの話をするなら、いつか彼は彼自身を許すための課題と対決しなくてはならない。僕はそれが見たい。

彼が最近少しだけ自分自身のことを書いてみたり、そのくせ大事な部分では具体的な結論を避け、歌詞を転回し、他者のエモーショナルを優先するその強さが僕は好きだ。誰かを深く傷つけることなどできもしないくせに、バーチャルな痛みを感じようとするその自虐的な感性が僕は好きだ。僕たちは根本的にエモーショナルでなどない。自分語りが何も生み出さないことを知っている。でも彼が反省を語るとき、そこにあるものは逆張りなんかではないと、僕は本当は思っている。それで守られているものが確かにある。それが本人を救わないことを知っている。だからいつか決着を見たい。そこにある言葉を知りたい。

目を大きく開くこともせず、そのくせ閉じることもしない。そんな目つきの僕たちだ。かわいくはないが。それを自分のことのように聞いて、たしかになんだかんだと生き残ってしまったなあと思うのは僕が死にたがりだからか。それでも今は真っ白なその目に映るものをいつか僕が見る。どれだけすごい人間だろうがすごい作品を作ろうが、人間がそこに居ることだけはどこまでも変わらない。だから真っすぐに視界の中に映し続けてさえいれば大丈夫だと信じている。同じ時代に生きていてよかった。こういうことが書けるようになってよかった。それは僕が確かにそう感じていることだからだ。

僕の書くことが誰かに何かを与えるか、僕は昔の僕ほど、もう期待もしていない。それでもこうやって恥ずかしい文章を書くことがここ数年で一番僕を救っているということももうわかっている。僕は僕だけを救うやり方を少しづつ取り戻し始めている。小説家になりたいとか本を出したいとかまだ何も本気になれていない。何の努力もしていない。僕は僕の心をここに滲ませてゆくことに必死だ。それが楽しくて仕方ないから僕は幸せだ。こういうことを書くべきでないとか、できる限り気にしないことにした。僕は嘘は書かない。書くことは僕が僕を導くことだ。それが僕の僕に対する約束だ。

君の言う「いつか」がいつ来ても僕は構わない。君がいつか在るがままに歌い、「君」と踊るのを僕は見る。きっとそれは音楽の話ではないから、その時が来れば僕にでもわかるはずだ。まったく見えない「その」気持ちに決着がつくのを僕は見たい。それがどれだけ早かろうが、僕が置いていかれようが、死ぬほど遅かろうが、こんな死に損ないのような人生ではもう関係のないことだ。それまで僕はここに居る。

2021.08,12 靄篠

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