てれかすくんおめでとうの話

こんばんは。靄篠です。

てれかすくんのテイクシート24、めちゃくちゃ良かったですね。良すぎてびっくりした。タルコフやりながら友達とこれめっちゃいいね〜って言ってたら射殺されました。ファクトリーで音楽を聴いてはいけない。

僕が行けなかったイベントで初めて流れたらしいという情報だけをTLで観測しつつ、誕生日を過ぎてもなかなか上がらないのでうずうずしていたらやっと聴くことができました。yeah。嬉しいね。

24はサビのとこがたいへん好きでした。まぁ相変わらず全部好きですが。てか上手くなったよね?音楽わからんけど。いずれにしても素晴らしいな〜と思う。

なんかテイクシート24聴いてていいな〜と思ったのは、前のとは結構スタンスが違うような気がしたんですよね。別にどっちがいいとかではなく。文脈で作品を読む僕の悪い癖は多分一生治らないですね。

テイクシート23のときって、立ち位置は結構その場に留まっていました。進むっていう割にはどちらかといえば22の振り返りと現在地の確かめのニュアンスが強くて、片足上げて裸足を見せられる程度の余裕、またはあれを作る時点での一種の諦め感が確かにあって、なんか最後にありがとうとか言ってしまってるんですよね。別に直後に死ぬわけでもないのに。自分に在り方を言い聞かせてるような感じだったのかな。そういう色々もあって、僕の中ではなんとなく23のほうが「遺書っぽい」んですよね。ちなみにこの「ぽい」は「ぽい」という意味です。つまりそれは誰が見ても遺書「っぽい」だろうということであって、僕がその観点で好きなのは、実は24というわけです(わかりづら!)。

24を聴いてみると、これはあんまりもう振り返ってないんですよ。振り返るどころかもうそこにいないんですよね。いや歌詞見たら振り返っとるやんけ!ってみんな思うとは思うんですけど(今年は訪問販売断れたらしいし)、てれかすくんはこのMVの中では全然振り返ってないと思うんですよ。つくってる間のpcの前では振り返ってたかもしれないけど。踊って歌ってるてれかすくんはもうそこにいなくて、もう結構先の方にいる。むしろこの曲で振り返させられてるのは、どう考えても僕らの方なんですよね。

てれかすくんは歩く途中の片足あげて前に出してそれが下りていく途中みたいな書き方をずっと24の中でやっていて、これは今まであんまり彼のやり方にはなかった書き方だと思います。僕らはその振り返り配信みたいなのを強制的に摂取させられている。勝手にてれかすくんが生きていったあとのミストみたいな「嬉しさ」の中を横切らされている。

僕の初発の感想なんですが、テイクシート24はてれかすくんの「残像」だなぁと思っています。僕がそこに見たのはてれかすくん本人じゃなくて残像だったなぁという気持ち。今回のテイクシートでは全くそこに居合わせることが僕はできなかった。おそらくこれは、前回よりも彼自身が彼の感情に対する解像度が高かったことと、適切な言葉を拾うのが上手になっていたからだと思います。自分語りと抽象と梱包のバランスが著しくエモに近かった。実在が創作に混じり合うラインを考えるときに想起するあれに似ていると思います。それは少し羨ましく、寂しくもあるのですが。なぜならそれは、彼が「居る」ことが「生きている」ことだと気づいてしまうからです。それは終わってゆくことです。

解釈する遊びをまたやってしまっているのですが、23のときと違って、24で踊ってるてれかすくんは結構ぼやっぼやにぼけまくってて、歌詞にばっかりピントが合ってるようなMVになってますよね。今までも歌詞は見やすかったけど、今回は今まで以上に視覚的に歌詞を理解しやすい。

てれかすくんって話すたびに「歌詞はそんなに考えることを頑張ってない」みたいなことを言うんですが、まぁ僕は専ら彼の歌詞を評価している人間なのでそれを言われるとぐえってなるんですけど、テイクシートって特にてれかすくん自身にがっつりスポットを当てることが許されている機会なわけじゃないですか(書き方の話)。単品として梱包された他の曲群と違って、テイクシートのシリーズは歌う人の誕生日に寄せるものであって、その一個人を明確に示して作るスタンスを積極的に取ることができる。こういう文脈があるなかで、あんま力を入れていない(らしい)歌詞が真ん中でくっきり流れて、誕生日を迎えた本人がぼやぼやに見えるってのは、やっぱりもう彼自身はそこにはいないんだなというか、言葉がそこに遺されていて、彼の生きている残像を僕ら見せられたんだなって僕は思っちゃったんですよね。これのいいところは、「生きていた」残像じゃなくて、「生きている」残像なところです。だから嬉しいと思う。僕たちにはまだ彼を追いかけて生きる猶予がある。

景色ってどうやっても勝手に移ろって消えていくし、思い出も気づいたらぼんやりしていくし、これは人によりけりだと思うんですけど、わりと僕は言葉に縋っているというか、考えて選んだ言葉なら僕らは遺せるんじゃないかって謎にお祈りしている生き方をしています。だから書いておけばそれは写真みたいにずっと残るって僕は信じているような信じていないような。

そう言う感じで僕はちょっと独特に言葉に対する拘りがあって変な書き方になってしまうんですが、テイクシート24は僕なりにいうと「いつか遺書になる」をめちゃくちゃ綺麗にやられちゃったな、って思ってるんですよね。「いつか遺書になる」は僕がよく言う好きな考え方なんですけど、今は明確には遺書足り得ないんだけれども、いつか生きた先でこれはそうなるよねみたいな話(そのままやんけ)であって、これは他者に対する信頼を死後にぶん投げる祈りだったりするんですが、24はこれが成立することを先にやって見せられちゃったな、ということでわりと僕は落ち込んでいます。本当は僕がやりたかったのですが、間に合わなかった。あれは明らかに信頼と愛のコミュニケーションだったと思う。

だからこれは今回てれかすくんから学んだことになるんですが、生きていたことを遺すことって、遺書を遺すことって、立ち止まった場所から見えた後ろの景色とか立ち止まった足元から拾い上げた言葉を世界に置いていくんじゃなくて、歩き出した途中に見える一瞬の景色とか小石と一緒に蹴り飛ばした言葉みたいな、どうせ消えていくしそもそも眺められもしなかった存在に対する眼差しというか、それが世界にすぐに溶けて無くなるのをひとつひとつ送り出す寂しさみたいなことを愛することのほうが、僕がやりたいことには近いのかも知れなかったなぁと思ったりしています。生きていたことを書くんじゃなくて、生きていることを書くことが、いつかちゃんと、生きていたことになるのかもしれない。

それくらい23と24で彼が作ったものは違っていて、残像を追わされるのは、やっぱてれかすくんはかっこええな〜〜と、思いました。

というわけで彼には今後も歌を作ってけ、という気持ちで、僕はどうやって生きていこうかな〜などと考えつつ、まぁ、おめでとうって気持ちですね。てれかすくんの誕生日もっと前だけどね。

そういや2番の歌詞が持たないのが相変わらずだったのはちょっと面白かった(書けるんだろうけどさ)。あれがいいとこだよな。愛ですね。

では✋いぬんぬ〜

休みあったら仙台の牛タンとずんだシェイク食べに行きたいすね。

1/21 靄篠

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