【映画の余韻】スポットライト 世紀のスクープ

※ネタバレしています。
見方を問われる作品。
カトリック系私立に長年通っていたので、この手の話は元々聞いた事があった。

善悪を教わる専門の組織だからこそ、敬う対象でもあり、神に最も近い聖職者の悪事。

淡々と情報収集を続け、徐々に裏が取れていく。
秘密裏に動く新聞記者4人のチーム、各々がなすべきことをフル稼働でこなしているが、過度なチーム!という励まし合いなどなくても信頼関係がしっかり構築されているのが良かった。

聖職者達による小児性愛の隠蔽は、確かに司教区や皇教が組織的に行なっている。

だが、ボストンという街を背景に、沢山の犠牲少年少女たちが出ている状況を、教会だけではなく、街全体=自分達も見て見ぬ振りしているのではないか?これは他人事ではないごく身近に起こっていた事なのに。これを突きつけてくる作品。

カトリックという宗教が当然のように根付いている地域にとって、教会に行き司祭の話を聞いて育つのは習慣であり、教会に携わらずに成長するものは少ない。
作品中に出てくる、地域の野球チームのようなもの。
しかも教会は、人々が心を通わせ共感し支え合い、同じ気持ちを抱く、心の交流の場、憩いの場、許しの場でもある。

誰もが成長し別々の職に就き様々な人生を歩むが、自らの軌跡の中にある、教会を、司祭を、あえて否定し糾弾するのは心理的にも辛い事。同じ街で生まれ育ってきた仲間の人々を否定し、その街に根付く過去を否定するのともニアイコール。

新しく違う街から来たユダヤ系トップだからこそ、目についた事件、大ごとにするのを厭わない姿勢。
それによそ者意識を抱く者もいる中で、真実を大切に報道する責務は同じ仲間、と記者各々が新しいトップを受け入れていた。

記者それぞれも、他人事ではなくこの件を身近に感じショックを受けながらも、記事に向けて調査を進めていく。小さな火種があった時に報じるチャンスを眠らせてしまっていた者、司祭達の弁護を親友がしていた者、子供達も通る近所に司祭のケアセンターがある者、教会に通い続ける祖母に事実を知らせなければならない者。
それぞれが街に住んでいる以上なにかしらこの一件に関わっていて、街に思い入れがあるほど、ショックも大きく、自責の念にも駆られる。

記事の後も同じ街で生きていかないといけない記者達にとって、大スクープの記事を街に投下することは、その後の人生、人間関係にも大きなヒビを入れかねない、生きづらくなる可能性もある出来事だっただろう。でも、全員が被害者の目線を向いて、真実を追求して、記事を公開する方向で奔走していく。誰も抜け駆けや出世を狙うなどの行動のブレがない。

私生活を犠牲にしながらも、真摯に事実に向き合う姿勢にとても好感を持てた。

では司祭達が根っからの悪党かというとそうではなく、禁欲の教えを厳格に守ろうとする聖職者だからこそ、歪みが生じて、身近で大ごとになりにくい少年少女にしわ寄せが行ってしまう。中には司祭自身が被害者だった者もいる。若くから聖職者として勤め、複雑で綺麗ごとだけではいられない思惑が交錯する現実の中に身を置いていなければ、精神年齢が12-13歳のまま成長が止まっていたとしても不思議ではないだろう。まだ司祭自体が大人になっていないから心の綺麗な説法をできるのかもしれないが、身体面の欲求を理性でコントロールできないのではかなり問題。
その問題司祭が、全員の6%にも登るというのだから、これはカトリックという宗教のあり方の根幹を揺るがす大問題。トップが隠蔽に励むのも当たり前だろう。

一方で、記事の事実収集に駆け回っている頃、9.11テロが起こり、多くの人々が教会を必要としていたこともまた事実。

非常に大きな問題だが、だからといってカトリックや宗教そのものを悪とは言い切れず、教会が街に、多くの人々に多大な貢献もしているという、こみいった問題。
ある種、組織の縮図とも言えるカトリックの組織体系。
第三者を入れない閉ざされた組織のあり方、内部の人間だけでは何十年かかってもまず変えられないだろう。

記事を読んだ人々が、記事をきっかけに見て見ぬ振りをやめ、能動的に更なる情報提供を行ったように、この作品を突きつけられた鑑賞者達も、これ以上の子供が被害に合わぬよう、子供を守りながらの信仰のあり方を模索していく義務があると感じた。

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