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デニス・ホッパー『ラストムービー』とは何なのか?

導入

『イージー☆ライダー』を成功させたデニス・ホッパーがその2年後の1971年に送り出した稀代の名作『ラストムービー』。
ハリウッド、ユニバーサルスタジオはこの作品を認めず再編集を指示し、ホッパーが従わなかったので即お蔵入りそして彼はおよそ10年の監督業の空白期間を作ったとのこと。
確かに、例えば『ホドロフスキーのDUNE』からも伺えるあのろくでもない保守っぷりのハリウッド連中に、『野生の思考』的な批判精神を背景にここまで「グレートなアメリカ」、そして何より「映画」のザマを炙り出してボコボコにする映画を許す器があるとは到底思えません。

大方の話、どんな映画なのか、は昨日のダーマエさんの導入で概略が示されています。

なので、ここでは自分の感じた「『ラストムービー』と言うこの映画は、結局一体何なのか?」を、ネタバレありで書いていきたいと思っています。あまりストーリーを追いながら、という形にはなりませんが、どうぞよろしくおねがいします。


まずはあらすじを、公式サイトより引用。

ペルーのクスコにある小さな村で、ハリウッドからやってきた監督(サミュエル・フラー)一行は、ビリー・ザ・キッドの生涯をもとにした西部劇を撮影している。初めて映画の撮影現場を見る村人たちは、暴力に溢れた撮影風景を恐怖と好奇に満ちた目で眺めている。スタントマンのカンザス(デニス・ホッパー)も撮影に参加するが、ハリウッドのスノッブさを嫌う彼は、撮影隊の乱痴気騒ぎをうんざりとした顔で見つめている。
撮影隊が帰った後も村に残ったカンザスは、現地で知り合ったペルー人女性マリア(ステラ・ガルシア)と暮らし始め、自然のなかで彼女と過ごす幸福に酔いしれる。だが金塊探しに妄執する友人ネヴィル(ドン・ゴードン)を介して知り合った裕福なアメリカ人、アンダーソン夫人(ジュリー・アダムス)らと戯れるうち、カンザスは徐々に酒とドラッグの世界へはまり込んでいく。
一方、アメリカ人たちの撮影に感化された村人たちは、自分たちの手で“本物の映画”を作ろうと村に集結していた。彼らは木製のカメラやマイクを手に撮影風景を模倣するが、演技という虚構を理解しないこの撮影隊の前では、すべての行為は現実に行われなければいけない。たとえ暴力や死でさえも。
やがてドラッグの見せる幻覚に酩酊していたカンザスは、“本物の映画”で処刑される白人役として担ぎ出され、奇妙で不条理な世界に入り込んでいく――。

(ラストムービー公式サイトより引用)

本物の映画

そもそも、映画を作るということの狂気は確かに分かります。まさか、「本当じゃない争いっぽいもの」を撮るためだけに、アレだけの人を集めアレだけの場所をとり、アレだけの熱量を持ち、種々の犠牲を強いることなど、映画に触れたことのない人間には考えもつかない気がします。

あらすじにもあるように、現地の人々は、撮影隊を模倣して「本物の映画」の撮影を始めます。初めはありあわせの何やら金属っぽいカメラやらの機材だったのが、より空疎な、形だけをしっかりと模した竹製の道具へと変化していく。レフ板もカメラもマイクも、その機能の全ては完全に無視され、ただ形だけの模倣が激しさを増します。

その一方で被写体には現実を求める。機材は嘘で、被写体はリアル。普通の「映画」とは真逆の構造を持っています。
大きな祭りと渾然一体となる「本物の映画」。竹製の機材が花火を撒き散らし、機材は更にその機能を失い記号を塗り替えられていき、その映画は彼らの祝祭へと変貌していきます。

彼らが映画を真似、それを開発していくのは、例えばアメリカが破壊し尽くしたアフリカ文化の中にもブラック・ミュージックが生まれたような、そんな被支配者の抵抗を前提にしていることでしょう。無意識に勃興した抵抗が、本来のそれと真逆の構造を持っていきます。

模倣、それは確かに「祭り」そのものであります。考えてみれば「祭り」というのはそもそも模倣ではないか。
神や豊穣や死者という、視認できないものへの祈りの祭りは、壮大な物語の模倣として成立するものです。儀式を成り立たせるために、神話が作られたという説まであるそうです。

そして現代は更にそれを模倣したものが祭りとなっています。機能が形骸化した、形だけの模倣。夏祭りは今、盆に死者を歓迎する物としてあるでしょうか?
南米三大祭にも数えられるペルーの大きな祭り「インティ・ライミ」、太陽神に生贄を捧げる儀式だったものは、今では当然生贄など出さず心臓を抜く形だけを模した祝祭となっていますね。現在のインティ・ライミが模す元々の儀式も、ある物語(太陽神)を現実に模したものだったわけですが。

生贄の儀式からお祭りになったそれに見れる構造は、「神の物語」→それをなるべく模倣した暴力的なモノ→その記号だけを模倣した非暴力的なモノ。という流れです。

映画という、現実の模倣に見えるもの、祭りに見える物を、真に模倣することで祭りとしている。

ただ、皆さん御存知の通り、映画とは全く現実の模倣ではありません。
それはこの『ラストムービー』の中で、トリップ状態と紛うような、現実に到底ありえない支離滅裂な編集や展開の崩壊からも示されていますよね。

そして、この「本物の映画」は、実に暴力的であり、そして記号だけを模倣する。暴力的祝祭と、記号的の模倣だけの祝祭への変遷を共存させながら急速に行っている。

この2つのことが示唆するのは、模倣される対象である映画は、原初的な儀礼によって模倣される視認されない物語(神話)のレベルにある。ということです。

では本物の映画は映画でないか?
いや、「模倣」が「実際」となることは映画におけるルールでもないでしょうか?〇〇のシーンが△△となことを表す。そういう表現を赦すのが映画ですよね。映画の文法に照らせば「本物の映画」も確かに映画であることを意識しているはずです。

『ラストムービー』の中でも話が進むほど露わになる記号性。銃が出るだけで銃声が鳴り、泣き顔が出るだけで赤子の泣き声がする。そしてキャラクターは人格を崩壊させます。「映画」と祭りの境が外れていきます。

そういった「映画」を模倣しながら否定した映画である「本物の映画」の存在、そして映画が神話のレベルにあること。これらがこれから読み解く「神の偏在」に関っていきます。

神は偏在する

「神は偏在する」この映画の最後のセリフです。
この映画を観ながら誰もが恐らく感じるのは、十字架やキリストが散々に画面に写っていることでしょう。十字架そのものが色んなシーンに散々出るのはもちろんですが、門や板が十字架の形をしている場合もあります。画的に「神が偏在」してますね。
監督の挨拶の時、その背後に掲げられている十字架、それを眺める子どもたちは天使の装いです。ちなみにこの監督役は『ショック集団』などの監督として有名なサミュエル・フラー監督です。映画監督だけは実際の映画監督に演じてもらってるんですね。
そしてキリスト教の墓にも当然十字架が立っています。その十字架によって神と死が密接につながります。
キリストは十字の磔の中に死にます。これは人類全ての原罪を代わりに贖う犠牲であり、これによって人々に救いをもたらした。とキリスト教の教義では信じられています。そして、キリストは必ず復活すると信じられています。この復活が、キリストを裏切り死に追いやった人々の前に再び現れることで、その罪を赦す大いなる神の愛の証として顕現するものとして非常に重要なのだそうです。

この映画に描かれるアメリカンドリームの崩壊は、「物語」というものの瑕疵に依ります。そしてその物語をばら撒く物を考えるに、「映画」を無視するわけには行かない。金鉱を開発できなかった主人公の友人が偽物のアメリカンドリームに騙されたのは、映画のせいです。
生まれ遅れた自分には計り知れませんが、恐らく当時までに、「映画」よりも「夢」を見せたメディアはなかったのではないか?映画とは全くの虚構であるくせに、それが見せてきた幻想は計り知れません。

また、レヴィ・ストロースが見つけたトーテミズムの論理性、構造主義の勃興は、欧米の一種の見下し、その思い上がりを剥がしました。
アメリカ、フィルムを持ち込むその場所にペルーを選ぶ。作品と同様に白人優位の植民地支配的に立ち回ったことは、デニス・ホッパーが散々生きて批判した世界と重なったはずです。その意味でも映画の罪、暴力というのは現れます。

それらの罪から目を背けることは、デニス・ホッパー程の繊細さを持つ人には不可能でした。
そしてその地においてデニス・ホッパーは「映画」を殺すことにします。これは実に贖いであります。

しかし同時に「映画」を信じ、復活を果たさせた。デニス・ホッパーほどに映画を愛した人が、「映画」が見せてきた幻想をただ否定することも不可能なはずでした。

『ラストムービー』にて、「映画」を殺し蘇らせることは典型的なアメリカでフィルムなカンザスへ託されます。現地の人々が撮影する「本物の映画」の中で、主人公のカンザスを代理に糾弾され、贖いに死に、そしてカンザスが普通に生き返ることで復活します。

映画を、不遜にも神性に重ねるならば、映画の中に「神は偏在する」ことの意味が、真に伺えます。映画を神としたのだから。その画面の、音の、想念の、存在の全てを、その復活を経て神としようとしたのです。「模倣」が「実際」であるという「映画」の文法によって「映画」を超えさせるこの循環!!涙ちょちょぎれです。
カンザスを殺した「本物の映画」は、キリストを磔に殺害したモノです。嘘の「映画」を信じなかったモノです。
彼らは自らが映画の罪に加担しているとは思っていないはず。しかし、キリストが贖ったのは全ての人に宿る原罪で、「映画」たるカンザスが贖うのは全ての映画に宿る罪でありましょう。

昨日の記事でダーマエさんが『ホーリー・マウンテン』へ言及していたけど、これは確かにと感じました。

『ホーリー・マウンテン』は、映画の「何か」を発見していました。映画に救いを求めていたホドロフスキー。
それを模索しながら映画のラストにおいて、映画は「現実に対する虚構」という二元論として対置され、その「何か」に結局答えを見出せませんでした。ホドロフスキーの50年に及ぶ人生の戦いの、未だ虚無にある段階です。

『ラストムービー』もまたあまりにも儚い。映画のばら撒く虚構と夢を自省し、真剣に贖いに殺し、それでも映画を蘇らせたかった。映画を信仰していたかった。
なのにそんな映画への愛は、ユニバーサルスタジオという、「ユニバーサル」、「世界」を冠した映画の重鎮に潰されてしまったのです。
「映画の罪」なんて認めるわけにはいかないか?否、それならまだ良い。
そもそもそんなメッセージはどうでもいいから売れるものを作れということでしかないでしょう。こんなにひどい話はありません。
映画はいろいろな立場、思惑、人々によって歪められた存在になっていたのです。

デビュー作から立て続けの『イージー☆ライダー』『ラストムービー』。観るにデニス・ホッパーは、どうしても神を知りたかったのではないでしょうか。
激動のアメリカの中で、信じられてきたものの嘘が暴かれ続け、彼が信じたかったもの。『イージー☆ライダー』においては、縋るだけ縋り、救いを得られなかった神。
彼もまたホドロフスキーのように救いを求めていた。映画を自省しながら、映画をとても捨てきることができなかった彼の営為は、彼自身を救済するためと考えられます。

映画の罪を『ラストムービー』にかぶせ、映画たるカンザスを殺したデニス・ホッパー。カンザスが生き返ることで「映画なるもの」は復活しました。復活してから、この映画は「神は偏在する」と言って終わるのです。
すなわち、実は、時系列的には、その神として復活させた映画を彼は作っていません。蘇りを果たしたことで超越的な、神としての映画となった「何か」に、映画の罪に加担しながら映画を殺した彼自身を赦してもらうことを求めたような気もします。

今までの全ての映画の罪を贖い、今までの映画でない映画を生む。だから『ラストムービー』は、『ラストムービー』なのではないでしょうか。最後の神でない「映画」として。


以上、読んでいただきありがとうございました。

(コードー)

(参考)


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