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50年を経てなお廃れない虚無『イージー☆ライダー』

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Netflix・TSUTAYA(レンタル)・prime video(レンタル) など...

概要

デニス・ホッパーという男の悲しすぎる世界。どんな邪魔の中にも自由を追いかけて、しかしその自由さえ価値がない。鑑賞後はどうしようもない虚無感。

見どころ

・アメリカと時代を表すデニス・ホッパーの虚無感
・おもしろすぎるジャック・ニコルソン

こんな人におすすめ

・全人類

評価

言うに及ばず


デニス・ホッパー監督の『ラストムービー』と、デニス・ホッパー主演で『ラストムービー』にモロに関わる『アメリカン・ドリーマー』が4月17日から出町座にて公開します。

その『ラストムービー』を考えるにあたり外せないのがこの『イージー☆ライダー』。☆が最高にダサくて良いですね。

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でも本国じゃ別に☆入らないみたい…

いわゆるアメリカン・ニューシネマの代表作であり、デニス・ホッパーの監督としての名を世に知らしめたこの監督デビュー作にして代表作は、多くの方々が見聞きしたことがあると思います。監督二作目である『ラストムービー』は、ハリウッドによって即お蔵入りさせれてしまった曰く付きの作品。これは『イージー☆ライダー』の続編と言ってしまっていいのではないかという様な作品で、『イージー☆ライダー』と結構重なることを、より激しく前衛的な混迷の中で、より広く深く叫んでいます。
この『イージー☆ライダー』の時点でも、唐突でその場限りだったりまとまりのない展開なども相まって、よくわからないという印象を持つ人も多いようです。
確かに話がどうという映画ではないので、よくわからないかも知れません。後半のジャンプカットは非常に特徴的であり、そして有名な衝撃のラストシーン、何がなんだかというのもうなずけます。しかしその実は、激動のアメリカの中でデニス・ホッパーという繊細な人の見た悲しき世界が叫ばれているのです。それでは紐解いていきましょう。

(あらすじ)
星条旗を羽織り、ヘルメットも星条旗な男ワイアット、またの名をキャプテン・アメリカ(ピーター・フォンダ)とその相棒ビリー(デニス・ホッパー)が、クスリで大金を稼ぎ二輪ぶっとばして南部のルイジアナ州で行われるカーニバルを目指しまして。ニューオリンズ・マルディグラといえば世界で最も有名なカーニバルの一つです。道中色んな所で人と絡んでマリファナ吸って、めっちゃおもろいジャック・ニコルソンな弁護士が付いてきて、しかし…といった話。

公開年は1969年。イーグルスの『ホテル・カリフォルニア』において、"We haven't had that spirit here since 1969."と歌われる年。タランティーノ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の舞台となった年でもあります。(ちなみにワンハリは人生で二番目に泣きました…)
公民権法の制定後もなくならない暴力的な黒人差別への反対運動は、暗殺されたキング牧師の不在に過激さを増しました。長く続く冷戦に60年代頭にはキューバ危機、そして何より泥沼化したベトナム戦争の最中に、若者たちは反戦反体制的な動きを強めていました。この映画にも出るヒッピーが文化として定着し、体制の世話にならない様な生活をと、都市を離れた田舎にコミューンを作る人たちもいました。しかし、そうしてヒッピー的な酒ドラッグ反戦ラブアンドピースのムードの中で、ヒッピー集団マンソン・ファミリーによる凄惨な殺人事件が起きました。
そして同じように、アメリカロック史に残る超巨大フェス、ウッドストック・フェスティバルが夏に開かれました。それはカウンターカルチャーの象徴として高らかに謳い上げられたのにも関わらず、同年冬に開かれたオルタモント・フリーコンサートにおいては、その激しすぎる熱狂の中、ローリング・ストーンズの演奏中に黒人青年が警備員に刺殺される事件が起こりました。
若者達が謳ったカウンターカルチャーの夢が崩れ落ちていく年。自分たちならと思って追いかけた自由と平和が結局体制的に崩れ落ちていく年。そう言えるのではないでしょうか。

そして、この映画にも同じような二面性を視ることができます。すなわち、追い求める「自由」を暴力も辞さず邪魔しようとする者達。そしてそれに反逆して手に入れようとしたその「自由」自体が孕む残虐さ、空虚さ。
この自由というのが『イージー☆ライダー』、そして当然自由の国アメリカの、そして世界のキーワードとなることは間違いありません。嘘だったアメリカンドリームを前に、「え、じゃあ、俺たちどうしろっての?」という乾ききった虚無感があまりにも悲しい映画なのです。そしてそれを未だに振り払えない2020年の大学生である私にも激しくぶっ刺さっているのです…

映画の冒頭からロックナンバーを背景にブンブン二輪をぶっ飛ばす二人の若者。ヤク売ってヤク吸ってクリスチャンの家やヒッピーのコミューンや色んなとこに世話になる二人は、定職もなく金を手に入れたジプシーのライダーという土地にも縛られない生き方、実に「自由」に生きてるように見えます。Born to be wild〜♪とか言って、いえーカッコイーってな具合です。前半はある種、長らく見ていた夢、理想と言えそうです。とは言ってもその前半も言うほどは楽しくなさそうな所はポイントかも知れません。西武から南部へ向かう途中の最初の段階でもホテルの宿泊を断られて野宿したり、少しのやりづらさのようなものも感じています。この野宿はこの先何度もあるのですが、なんとなくビリーはお気楽で、キャプテン・アメリカはどこか含みのある表情をずっとしているのです。

そんな中、その辺の街のパレードではしゃぎすぎて二人は捕まってしまいます。露骨に向こう見ずな「自由」とそれへの介入です。その二人を釈放させるために掛け合ってくれた、ジャック・ニコルソン演じる面白すぎるおっさんジョージが加入してから物語が加速します。

まずこのジャック・ニコルソンがおもしろすぎます。酒飲んだ後に「ヅァアアアアアアーッ!ニッニッニッファッファッファッkっ、インディアンズ…」とか言い出すシーンは面白すぎです(0:24から)。持ってるヘルメットも面白いし、とにかくおもろいおっさんです。
彼は酒を飲みますが、野宿でクスリを誘われた時に一旦は断り、結局吸います。伝統的っぽくもありながら理解あるおっさんといった感じで、若者と保守的な態度の人の間のような印象です。「人を殺してなければ釈放させてやる。白人をね。」というセリフにも、色々と伺えます。
彼がチケットを持っていたルイジアナにある最高級の売春宿へ一緒に行こうとなり、彼らは謝肉祭と同時にその売春宿を目指すことになりました。

ここからネタバレあり。


さて、そのおもろいおっさんの加入後に一行はどんどんと南部へ近づいていきます。南部と言えば歴史的に保守的な思想で、人種差別も強い場所ですよね。バーに入った彼らを迎え入れるのは、実に閉鎖的な人々。若い女の子の客は彼らにイケてるとか言う一方で、ウェイトレスは注文も取りに来ないし、客のおじさんたちはものすごい悪口を聞こえるように言っています。

そしてその男たちから、三人は野宿中に袋叩きに合い、ジョージが殺されます。戦慄のシーンです。そもそもこの野宿のシーンで「自由」「アメリカ」について重要な会話がなされていました。アメリカはいい国だったのに。自由を恐れ、暴力をふる。アメリカは、自由の国じゃなかったのか?
そして、あんなにおもろかったおっさんが、実に簡単に、死ぬ。ジョージの人生は自由を恐れる人々の暴力であっけなく道を閉ざされました。

しかし、それでも謝肉祭を目指してルイジアナへ行く二人。例えそんな邪魔をされても彼の地を目指します。
そして迎える謝肉祭、彼らは売春宿にたどり着きました。そういえば、「イージーライダー」という言葉は「売春の斡旋してるやつ」的な意味だそうです。たどり着いた売春宿で、彼らは行為に及ぶこともせず女性を連れ出して謝肉祭の見物に行き、LSDを服用します。そして特徴的なジャンプカットのサイケデリックな一連のシーンへと。めちゃくちゃなテンポと画面が、トリップ感覚を表します。

その中であまりにも悲しいのがキャプテン・アメリカが神に縋る場面ですよ。
というのも、LSDのシーンが終わった後、その晩の野宿である会話がなされるんです。「俺たち金持ちだぜ」というビリーに、「失敗だ」と言い放つキャプテン・アメリカ。「どういう意味だ」というビリーに、「ダメなんだ。」とだけ言い放つキャプテン・アメリカ。
「自由」か、押し付けられた「アメリカンドリーム」か、その無意味さを見てしまった空虚が余すことなく発露しています。
その先にもう何もないことを知ってしまっていた彼。神などという1900年代初頭に死んだとか言われた存在を、ジプシー的な志向で自由を求めた彼らが、本気で信じていたはずがないのです。謝肉祭で売春宿行こうぜ〜とか言ってた彼らが、謝肉祭を宗教的な儀礼として信じる敬虔なクリスチャンであるはずがないのです。
どこかにあると信じてきた自由、或いは幸福と言ってもいいのかも知れません。しかし都市も田舎もアメリカ自体、どこにもそんな夢のようなものはない。LSDの中にだって。信じてきた全てが否定された時、残った最後に神に縋るしかなかった。そして信じもしない神にとってつけたように縋って、そんな祈りが届くわけがなかった。救われるはずがなかった。とてつもなく悲しいシーンです。

その翌朝、超有名な衝撃のラストシーン。すれ違いざまのクソ野郎に絡まれ、撃たれ、ビリーが死ぬ。それを追ったキャプテン・アメリカも撃たれて死ぬ。爆発。終わり。

これに関しては、ジョージの時と違い何の前触れもありません。こんなにも唐突な、死。あまりにも自由過ぎるラストですが、ここまでの議論を考えれば、その通り。たしかにこのラストはあまりにも「自由」なのです。「自由」の暴力性そのものなのです。狙撃したクソ野郎どもは、自由を恐れ阻害しようとする人間でありながらむしろ何より自由な存在でもあるのです。
すなわち、前述した 追い求める「自由」を暴力も辞さず邪魔しようとする者達。そしてその「自由」自体が孕む残虐さ、空虚さ。を同時に体現するラストシーンになっているのです。
ゴダールを思わせる諧謔的な爆発によって、どうしようもない道化的な虚無感を提示する。こんなに悲しい映画もそうそうないのです。
そして50年たった今、大学生の自分に結局突き刺さってしまう。嬉しいんだか、悲しいんだか…

といった具合で『イージー☆ライダー』は終わります。そして続く『ラストムービー』では、アメリカと、同時に今度は「映画」を殺しに行きます。こちらは出町座では4/17から公開です。両作品とも是非観ていただきたいですね。ありがとうございました。

(コードー)

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