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「少女革命ウテナ」を読む

90年代を代表する大人気アニメ「少女革命ウテナ」について語ります🌹⚔️✨

 「少女革命」とは一体?



なが〜い原稿はこちら↓↓

少女革命ウテナを読む。

1997年にTVアニメ化。
監督/原案:幾原邦彦(いくはらくにひこ) さいとうちほ
原作:ビーパパス

『美少女戦士セーラームーン』シリーズのメインスタッフだった幾原邦彦が少数精鋭のスタッフを集めて制作集団ビーパパスを結成、「セーラームーン」の少女漫画家さいとうちほと組んで世に放った異色作。


テーマ

女性が王子さま(男性)に幸せにしてもらう(お姫様)の生き方から抜け出し、自分軸を確立して生きること(少女革命)の痛みと苦悩を説いた、フェミニズムアニメの先駆的存在。


*当時からするとどえらく進みすぎいるし、なんなら今だって未来すぎて追いついてないくらい。思うんだけど、ポケモンといいウテナといいエヴァといい、90年代後半のアニメって性とかジェンダーとかのを全面に出しまくっていたな。不思議遊戯とかもそうか。子供ながらに強烈な原体験だった。こういう作品見てきたからルパンとかに惹かれるんだろうな。。


みどころ

①「王子様」に縛られる男性側の苦悩

主人公やキャラクターたちが王子様に執着し、憧れながらも、彼の支配する腐敗したシステムから抜け出すことの難しさや、そのシステムの中で「女性を満たすためだけの存在」として扱われる、男性目線の描写が新しい。(世界中のお姫様の家族からの攻撃や憎悪。)

②虚構と現実の芸術的な対比

ストーリーの難解性やキャラクターたちの抱える闇、冷酷さに対して、メルヘンチックな衣装や建築、おとぎ話を連想させるミュージカルの様な舞台設定を掛け合わせた、まか不思議で独特な、唯一無二の世界観を醸し出している。



ウテナの役割「女性版王子様」

幼い頃に両親をなくし、その痛みを癒してくれた王子様に憧れるあまり王子様に同一化した少女。彼に再会するべく手がかりの指輪と同じ薔薇のモチーフを掲げる鳳学園に入学する。

正義感の強いウテナは、ひょんなことから学園内で執り行われる「決闘」に巻き込まれていく。そこではデュエリストと言われる者たちによる、「薔薇の花嫁」という勝者の戦利品を掛けた戦いが繰り広げられていた。

「薔薇の花嫁」として、勝者の付属品のように扱われる姫宮アンシーを見たウテナは、その囚われの身の上に同情し、彼女を理不尽なシステムから救うべく、デュエリストとの決闘を繰り広げていく。。


自我のないアンシー

デュエリストとの決闘に勝利し、アンシーを「獲得」したウテナだが、彼女の自我のなさ(また、本人がそこに何の疑問も抱かない姿)に驚きを隠せないウテナ。正義感からしだいに彼女の意識革命を促すようになるウテナだが、アンシーには秘密があった。



「王子様の亡霊」たち。

学園を支配する鳳アキオはアンシーの実の兄であり、彼はかつて幼い頃のウテナを救った白馬に乗った「王子様」であった。しかし「王子様」であるがゆえに「お姫様を幸せにする」という宿命に耐えきれなくなった若かりし頃のアキオ(ディオス)は、アンシーの手によってその能力(純潔性や希望)を封印され、「世界の果て」として自ら作り上げた虚構の世界で、欲望のままに生きる俳人となる。

彼は「王子様として女性たちを永遠に幸せにしたかった反面、その終わりのない要求に現実的に応えられなかった無力さや罪悪感を抱えており、その直接的な原因を作ったアンシーを心の中で憎み蔑みながら、同時にそんな自分の唯一の理解者として慰めをもとめている。


永遠に王子様でいられなくなったアキオは、その痛みを誤魔化すために自ら作り上げた虚構の世界で絶対的な権力を手に入れようとする。彼は分裂していて、もう自分は汚れてしまって王子様には戻れないから、代わりに誰かにアンシーの王子様になってもらって、彼/彼女の力(剣)のみを取り戻したいと都合の良い考えをしている。なので、扉を開ける為の「鍵」を見つける手段として、デュエリストたちを戦わせている。(本人じゃなきゃ無理でしょ。アキオ全然気高くないもん。)


(ちなみに、幼いウテナも、魔女になったアンシーをアキオに見せられていて、「アンシーを救い出せるのは彼女の信じる王子様だけだ」とアキオに吹き込まれ、その呪いを忘れさせないよう、ウテナに薔薇の指輪を渡す。その使命感から素直なウテナは王子様になろうと決意する。)

またアンシーは、愛ゆえに彼を王子様から逸脱させてしまったことで、王子様を奪われた世界中のお姫様たち(の家族)から恨みや怒りの感情をかい、その矛先がディオスではなく自分に向くように、「魔女」としての役割を自ら引き受けている。



革命とはなんなのか?

アニメの後半でウテナは、アキオとの関係に苦しむアンシーが自分の人生を取り戻すにはアキオ(悪い王子様)を倒して自分が代わりにアンシーの王子様になる必要があると決意し、アキオとの決闘に挑む。

しかし、アキオや、助けるはずのアンシーからは、次々に「女の子だから王子様になれない。」「君は女の子だから」とその正義感を悉くつぶされてしまう。

かつてのディオス同様、自分が王子様としてお姫様を助けられないことに無力感を抱いたウテナだが、なけなしの力を振り絞って囚われのアンシーの元へゆく。

この時感覚的に「敵を倒してお姫様を救って、王子様になる」という従来の方法ではアンシーを救い出せないのではないかと気づいた。(ウテナの革命)

これにより、まずアンシーの心の扉が開いた。さらにウテナは、「君と一緒にいることで、僕がどれだけ幸せだったか、君は知らないんだ」とアンシーに告げる。これは、「僕が君を幸せにするから」と言った、王子様お姫様目線の真逆のことば。

これにより、「自分(アンシー)自身が、ウテナを幸せにしていた、=王子様に幸せにしてもらうお姫様ではないんだ」とアンシーは気づく(アンシーの革命)



ウテナ=レズビアンもの?

監督は、当初ウテナとアンシーが親密な仲(レズビアン関係)になることを想定していたそうだが、さいとうちほはこれを全否定したそう。(劇場版では全面的に肯定される)

ワタシも激しく同意で、仮にウテナが同性愛だったとしても、アンシーとウテナが結ばれることが答えになってしまうと、ウテナはアンシーの(家父長制の意味での)王子様になることになって、学園から出なくて済むから、「革命」は起きないんだよね。この物語は、王子様(自分を幸せにしてくれる誰か)の存在を殺すことによって、自らお姫様を降りる決意をすることが「革命」だから。。




まとめ

ウテナの物語では、王子様という救世主のような存在を求める私たちのお姫様のようなあり方から脱却し、自分の人生を生きようとすること(革命)に焦点が当てられている。

そこには、ウテナを通して描かれる、誰の中にもある、「誰かを救いたい」という、純粋な王子様の様なきもちに執着するキャラクターたちの人間らしさがあった。また、さらにこの作品が凄いのは、王子様としてのウテナ自身が「消え去る」ことが結果的にはアンシーの中の「お姫様」を解放する手段になっていたこと。

オープニング曲の、
「たとえ2人はなればなれになってもワタシは世界を変える」というのはそれを意味している。「王子様とお姫様の関係じゃなくなったとしても、私(元お姫様)は自分の為に生きる決意をするから。それが世界を変えることだと信じているから。みたいな。涙。。



なんか、「ウーマントーキング」に通ずるものがありました。


fin.

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