聖剣伝説LoMの世界⑨ マナの女神
この記事は「聖剣伝説 Legend of Mana」のマナとマナの女神についての考察です。マナがテーマになります。
ゲーム中のメッセージの引用は適当だと思われる部分だけ要約しています。設定資料と書いてある時にはアルティマニアの巻末の設定資料からの引用が元になっていると考えてください。
ネタバレ注意
この記事は「聖剣伝説 Legend of Mana」の考察です。三つあるメインストーリーを全部やってゲームクリアした人を想定しています。ゲームをプレイする前やゲームをプレイ中の人は気を付けてください。
まずはこの記事で何度も言及することになるオープニングのマナの女神の呼びかけを見てみましょう。
オープニング
マナの木が焼け落ちたのが900年前。
マナの力は、魔法楽器やマナストーン、
アーティファクトの中にだけ残され、
知恵ある者たちはそれを奪いあいました。
そして数百年に渡る戦乱の時代を経て、
マナの力が少しずつ弱まるにつれ、
それを求める者たちも消えゆくと、
ようやく、世界に平和が訪れました。
それ以来。人々は求めることを恐れ、
虚ろな気持ちだけを胸に抱いて、
私の手から離れて行きました。
私の無限の業から目を背け、
小さな争いに胸を痛めています。
私を思い出して下さい。
私を求めて下さい。
私は全てを限りなく与えます。
私は『愛』です。
私を見つけ、私へと歩いて下さい。
マナ
この記事ではまずはマナ、マナストーン、マナの聖域といったマナとそれにまつわる事柄について扱って、それからマナの木(マナの女神)について主題にしていきたいと思います。
マナは「聖剣伝説 Legend of Mana」の世界、ファ・ディールを理解するためには重要なキー概念で、作中にも何度も言及されます。
ただ、マナが何であるのかについては作中では直接には言及されないものでもあります。
まず、アルティマニア巻末の設定資料を見てみましょう。
マナはすべての力の源であり、波動、光、力、世界の全てです。ガトの癒しの寺院では波動、ドミナの町のマナの女神の教会では光と表現されています。マナには八つの相(属性)があり、複雑に結びついて現実の世界を形作っています。
この世界はマナでできているので物や生物もまた本質的には全てマナということができます。その中に宿っている特殊な力や能力の部分を特にマナやマナの力と呼ぶこともあるようです。
オープニングの中で魔法楽器やマナストーン、アーティファクトはマナの力が宿っているものとされています。アーティファクトの滴る緑の杖(ランド・白の森)はマナを放出し続けていますし、同じくアーティファクトの玉石の王杓(ランド・煌めきの都市)は宝石に宿るマナの波動を解き放ちます。
人間には物に込められた力を操るとされていますがこの力もマナだと思われます。マナは自然に近い力なのに人間が作ったものにも宿るのかというのは微妙な気がしますが、アーティファクトや魔法楽器は人間が作り出した物ですが確かにマナが宿っています。
妖精は歌や踊りで生き物のマナの力を高めるとされていますし、珠魅は核に宿っているマナの波動を下げることで珠魅の一族の秘密を守りました。
精霊はマナが実体化した存在とされています(アルティマニア・『聖剣伝説』入門)。
マナは世界に満ちていて、循環するものでもあるようです。
この循環は特に植物が行っています。植物はファ・ディールの大地からマナを汲み上げて大気を作り、マナの流れを担っています(トレント)。
マイホームの果樹園では種をトレントに与えることで果実を入手できます。曜日やマイホームのマナレベル(周囲に配置したランドによって決定される)によって果実が実をつける速度が速まるのですが、これもまたマナの力によると言えるでしょう。
大地から生まれて大空を駆けて大地へと還るマナの大河というのが神話の中で言及されています。神獣フラミーの創造競走に明け暮れてファ・ディールを乱した月神たちは事態の収拾を図るためにフラミーにマナストーンを託します。フラミー達が大空を駆け巡るとマナの大河が生まれてファ・ディールを再生させました。
マナの木は人間界と妖精界を繋いでマナの流れを担っていましたが、そこに大魔女アニスが穴を穿って工房を作り上げました。そのためにマナの流れが遮られてしまい、妖精戦争が始まります。
マナの木はかつてはマナの循環を担っている植物でも最大のものであったでしょうが、オープニングでも言及されている通り、現在はマナの木は焼失しています。
魔法やアーティファクトを使う原理もまたマナです。
魔法は大気に波動として満ちているマナを自分の心の波動と合わせて力として取り出すことで使えます(ヌヴェル)。マナは波動なので大気のマナと人間のマナを合わせて魔法は使われているのでしょう。
アーティファクトはアーティファクトと関わりを持った人や場所のマナの波動に精神の波動を高めて共鳴させることでランドを出現させます(設定資料)。これもアーティファクトに宿っているマナと人間の持つマナを共鳴させることでアーティファクトを使っているということでしょう。この共鳴は同時に思念(イメージ)の力による世界の再認識でもあります。
共鳴とか循環というマナの関係概念は「聖剣伝説 Legend of Mana」の多様なテーマとマナを結び付けるようです。
後で言及することになると思いますが、多様性と善悪(倫理)は「聖剣伝説 Legend of Mana」のメインテーマです。その辺りのテーマと絡めるためにマナが個別に存在するだけでなくて、共鳴とか循環という形でお互いに関係を持っているということにしているのではないでしょうか。
「夢の檻の中へ」ではマナの力に言及されています。草人を隠してしまったヌヌザックを説得するために七賢人ポキールがやってきました。ポキールはマナの木の無限の力の源であるが、その力は本来人の中にあって、マナの木に触れることで自分の本質に気が付くことができると説きます。
ここで力とか本質と呼ばれているものもまたマナでしょう。
マナの木は創造主であるマナの女神でもあるので人間のマナもまたここから生じていることになり、それに触れて自分のマナについて悟るところがあるのも理解できるところです。
ところでポキールは愛が力になるとも語っています。愛を誰かに向けようという話なのですが、これもマナの性質である共鳴や循環に近いマナの関係概念の一種のようです。
マナの衰退
ここまでの分析でマナは世界を構成している要素であると同時にさまざまな現象の原理でもあるということが分かってきました。
あまりにも多いのでマナ自体がなんなのかはちょっとぼやけてきた感じもしますが、それ自体が主題にされている物語ではないので輪郭のスケッチで十分でしょう。
ここで問題が発生しました。世界はマナであり、マナの働きがいろいろな面で現れていることが分かりました。
しかし、オープニングではマナの力が失われていることが言及されています。マナの力は魔法楽器やマナストーン、アーティファクトの中にだけ残されて、マナの力は少しずつ弱まってきたとされているのです。
これを文字通り受け取ると設定に矛盾が生じそうです。
私はここで言及されているマナの力は主には知恵ある者たち(おそらく魔法使い)がすぐに取り出せるような形のエネルギーの源なのではないかと思います。
物に宿る力を扱うことが人間にはできますが、その本質を知ることが人間にはできていない。だからそれを求めるものは減ってしまったのでしょう。
大魔女アニスを筆頭に魔法使いはマナを使う力そのものは持っているのですが、その本質には気づいていないという設定になっています。
設定資料ではアニスは魔法は素晴らしいが精神的には未熟、賢人とは異なる世俗的な存在、魔法を極めながらも精神論にはいかない、魔術師というよりは錬金術師に近い、科学者的とされています。
「夢の檻の中へ」でポキールの説得を頑なに拒絶するヌヌザックもまた
魔法使いのこういう側面が現れたものでしょう。
マナの力が魔法楽器やマナストーン、アーティファクトの中にだけ残されたというのは第一には一般的な意味での話と思われます。
オープニングでは戦乱の時代を通じてマナの力が少しずつ弱まって、それを求める者たちも消えると世界は平和になったとされています。
ここでのマナの力は物に宿ったマナのことでもあると思いますが、同時に世界のマナのことでもあると思われます。
この世界は現在マナの木はなく、それによるマナの循環がなくなっています。マナが淀んだ状態と言えるでしょう。マナは世界を巡っている状態が正常で、その循環が弱くなっていると物や生き物のマナの力もまた弱くなっていくのではないでしょうか。
イメージの世界である妖精界との繋がりが人間界に断たれて人間たちはイメージを失ってもいます。
これからの議論の先取りになりますが、オープニングでは世界の現状にマナの女神からの呼びかけが続きます。マナの女神は自らを『愛』と称して、それを求め目指すようにと呼びかけます。
七賢人ポキールもまた、他者を愛するようにと説きます。
マナの廃れた世界は同時に愛のない世界でもあるということでしょうか。
マナストーン
マナストーンは店で売っているアイテムの一種です。地・水・火・風の四種類があって武具防具作成で属性を装備品につけることができる副材料です。
マナストーンと似たアイテムにマナクリスタルがあってこちらも店売りのアイテムで、光・闇の二種類があって属性を装備品につけることができます。
ゲーム中のアイテム図鑑ではマナストーンはマナエネルギーが含まれている岩石、マナクリスタルはマナエネルギーが物質化する段階でコアとなる物や思念がなかった場合にできる純粋なマナの結晶とされています。
アイテムとしてのマナストーンはマナの属性に関わるアイテムです。
ストーリーでのマナストーンは主人公が扱っているマナストーンとは格が違う存在です。マナに関わり、属性を持っているという点では同じですが、その影響力は世界を揺るがすほどです。
神話時代の月神たちはマナの女神から名前の石という石を与えられました。月神は六柱でそれぞれ水・火・金・木・土・風の属性を持ちます。それぞれの属性の石を与えられたのでしょう。
名前の石は後にフラミーに託されて世界の再生させます。その後にフラミー達がどうしたのかは分かりません。ただ、フラミーの神性を反映した知恵のドラゴンたちがマナストーンを持っています。
ドラゴンキラー編で登場する知恵のドラゴンたちが持つマナストーンは恐らくは月神がマナの女神から渡された名前の石なのでしょう。世界の命運を左右できるのもマナの女神ゆかりのアイテムなら納得できることです。
月神のマナストーンは六つですが、七つ目のマナストーンというのもファ・ディールの歴史の中ではたびたび姿を見せます。力を持った石ということは確かで魔法使いが求めたものですが、ついに見つからないままの存在です。
珠魅編(宝石泥棒編)ではレディパールがマナストーンを探しています。これも七つ目のマナストーンとして歴史の中でたびたび姿を見せたマナストーンだと思われます。
ところでドミナの町のティーポは宝石好きでマナストーンの話もします。
聖域にあるというマナストーンの原石を見たいと言っています。
聖域はマナの聖域でしょうから人間界にある月神や知恵のドラゴンたちの六つのマナストーンとは違うものです。
ここからは想像になりますが、聖域のマナストーンは七つ目のマナストーンとして度々人間界に落ちてきては戻っているというようなものかもしれません。マナの聖域からのアイテムなら歴史を動かすような力があってもおかしくはないです。
あるいは七つ目のマナストーンでもなくて八つ目のマナストーンかもしれません。マナの属性は八つあるのだからマナストーンも八つというのはありそうです。
マナの聖域
マナの聖域はアーティファクト「マナの剣」で設置できるランドで、「聖剣伝説 Legend of Mana」のラストダンジョンです。
マナの木もそこに浮かんでいます。
マナの聖域のイベントである「マナ」をクリアすればゲームクリアになります。
マナの聖域はワールドマップではマナの木を中心にゆらゆらと現れてはかき消えるグラフィックです。
この見え隠れするグラフィックが現在のマナの聖域の不安定さを表しているのか、それともマナの聖域が世界から隔絶された存在であることを表しているのか、どっちともつかないですね。
ゲーム中では港町ポルポタにいるペンギンとドミナの町のティーポに言及されています。
港町ポルポタの水上レストランのペンギンは海の男の歌を歌っているのですがその中で「いつかは聖域へ」とあります。
またドミナの町の武器屋のティーポは聖域にあるマナストーンの原石を見たいと言っています。
いずれもマナの聖域に行ったことはなさそうで、ファ・ディールの中では
マナの聖域が噂話や伝説として語られていることを示すものだと思われます。
マナの聖域はそこにいる草人によると神界でもあります。また、世界事典ではマナの木は「神界に高きマナの木」と書かれています。
ゲーム中のランド図鑑によれば、万物の創造と流出の根源となる絶対世界であり、聖域ではすべてが絶対的で永遠に移ろうことのない真存在であるそうです。
マナの女神は創造神なので創造というのは分かります。
流出は哲学の新プラトン主義が使う用語です。新プラトン主義では世界が上下にいくつかの段階に分かれているとしていて頂点が神です。
神は絶対的で完全であるために下の世界にも影響を及ぼします。これは上位の領域から下位の領域へ溢れ出してくるもので流出と呼ばれます。この流出で作られた世界が神の下へ還ってくるというのが新プラトン主義の世界観です。
この新プラトン主義が成立した時代は古代キリスト教の成立期でもあり、
キリスト教の教義にも影響を与えています。世界創造とか最後の審判といった歴史の構図には新プラトン主義の世界観が使われています。
私の見解ではこのあたりの哲学・宗教的な議論が「聖剣伝説 Legend of Mana」の設定には大きな影響を与えています。
わからないのは絶対的とか、永遠に移ろうことのないとか、真存在とかでしょうか。
マナの木はかつて焼け落ちてなくなりました。また、現在マナの聖域にはマナの力を吸いつくすためにモンスターが入り込んできています。とても不変とか永遠の性質を持ってるとは思えないですね。
マナの聖域はマナの木を見わたせる丘から始まって、根やうろ、枝を伝って登っていくダンジョンです。その奥には聖域があります。
聖域には門があり階段や敷石で繋がった9つのエリアに崩れた祭壇がある場所です。各エリアには中心に羽根のある柱があって、周囲を繋がった列柱が囲んでいます。
列柱の部分は崩れて完全なものはないですが、土台を見ると八つずつあるのでマナの属性を表しているようです。
中心の羽根のある柱は中央部に目のようなものがあり、上にはキノコの傘のようなものが被さっています。中心に置くということは当然マナの女神を表していると思われます。
さて、非常に奇妙ですがこの聖域はなんでしょう。高度な文明を持った人間が作ったもののように見えます。ただここが普通の人が出入りできるところとも思えません。
また、賢人とかその手の現在力を持っている人のものでもないでしょう。崩れたまま放置していますから昔の人が作って放置したものです。
マナの木に手を加えた人物に大魔女アニスがいます。彼女はマナの木を穿って工房を作りました。ただ、聖域は宗教的な雰囲気を持っているために精神性を求めないアニスとは相容れないし、錬金術師の工房にも見えません。アニスの工房ではなさそうです。
設定資料の教会の項にマナの女神が妖精戦争のはるか昔から戦乱の際に奇跡を起こしてきたことが言及されています。
こういうことがよく起こるような時代ならマナの女神が人間たちをマナの聖域に招いて、聖域を作らせたということもありそうです。現在ではそんなことはなさそうですが。
七賢人の一人のセルヴァはロシオッティに殺害されて、現在はアーティファクトの身体を持っています。その殺害された身体は聖域の棺にいまも朽ちることなく納められているのだそうです。ゲーム中には特に言及されず登場もしません。これはセルヴァの死体っていきなり出されても困りますよね。
女神の創造
さて、「マナ」ではマナの聖域の奥のモンスターを全部倒すとマナの女神が出てきて、それも倒すとゲームクリア、エンディングとなります。
なぜマナの女神と戦いになり、それがどんな結果になるのか。非常に抽象的で難しいのでこの辺りが知りたいですね。
オープニングや「マナ」のポキール、マナの女神自身、そしてイベント「夢の檻の中へ」がヒントになるものと思われます。
ここでキーワードになるのは創造と陰影、闇、影でしょう。また、「自分自身について知る」ということが重要な論点になるのですが、長くなるので略記する時は「反省」とします。
「マナ」でのポキールはまず世界創造から話を始めます。マナの女神は光そのものであるために自分の姿を見ることができず、そのために光の一部を影、陰影として自分の姿を知った。そこから創造が始まり、女神のイメージだけで宇宙の全て生み出されたというのがファ・ディールの創造譚です。
ただ、ポキールはそこに同時に闇の始まりがあったともしています。
「宇宙の全ては、もとをたどれば光から出来ている。
全ては一つにつながっている」
「ただ、自分の姿を知りたいと欲した、
その気持ちだけが、影となり、我々を隔てた」
続いてポキールは闇を憎まなくていいと言います。そして、自分について知りたいと思うこと、ある種の反省が作りだした闇と主人公は対峙することになることを予告します。
「キミの言葉は力だ。
女神は力でキミに語りかけるだろう」
要するにいつものようにバトルになるわけです。商売人のニキータなら金力で勝負になるのでしょうか。
世界事典では世界創造の説明はポキールの話とは随分違っています。闇を押しのけて光が射して一つの太陽が生まれ、マナの女神はそれによって自身の姿を悟ったとされています。
ポキールの説だと光が闇を生み出して反省が行われたのですが、世界事典だと闇に光が射して反省が行われています。
世界事典ではこの創造に続いてファ・ディールも女神の身体にふさわしい大地として作っています。ポキールはファ・ディールの大地自体は言及していません。
創造の順序はさておいて、この二つの世界創造の共通部分である自分の姿を知る反省の部分に着目していきたいです。
人間の反省
ところで、ファ・ディールは基本的にマナの女神以外に神のいない一神教の世界であるようです。精霊や妖精、天使といった人間を超えるマナに近い存在はいるようですが、マナの女神に肩を並べる神というのは存在しません。
女神が世界の創造を託した六柱の月神も現在ではおらず、ゲーム中でも世界事典でしか言及されません。
武器防具作成のシークレットパワーの名前で天上十二神とか邪神七将という多神教っぽい演出がありますが、演出という以上のことはないようです。
「夢の檻の中へ」でポキールに判断を委ねようとするポキールが「賢人殿の神のごとき力でお示しくだされ!」と迫るところがあります。
珍しい「女神」ではない「神」の言及です。ポキールは男性だから「女神のごとき」だとちょっと変だからですかね。
普通女神というのは男性の神に対して女性の神ということになるのでそもそも女神という言葉が変な気もします。「聖剣伝説」のシリーズで出ているから変えられなかったのでしょうか。
さて、ファ・ディールはほぼ一神の世界だということになりました。
現実の一神教においては神は神自身に似せて人間を作ったということになっています。何が似ているのかという点においてはその精神、知恵の部分ともされています。
ファ・ディールでは女神の反省が世界創造の発端です。自分自身を知る反省というのはファ・ディールでは特に人間に与えられた能力です。
ガイアとの会話(レディパールを連れて来た場合)では人間が考える力となす力を隔ててしまったとあります。反省がこの分離を生んでいるのではないでしょうか。
この逆の思考と行為が分離していないということは思ったままに行動しているために、自分自身を離れることがないということでしょう。妖精や悪魔などの人間以外の種族は本来そういった種族です。
ただ、自分自身を分離する反省はファ・ディールでは世界創造をした女神の最初の一歩です。この一点において人間は神に似ているとファ・ディールでも言えるのではないでしょうか。
女神の闇
「マナ」においてマナの女神は自らを光と同時に闇であるとも言います。どちらかというと闇の方に重点を置いて話しています。主人公が戦うことになるのも闇の姿です。
マナの女神は光も闇も自らの半分に過ぎないとしています。主人公が戦ってきた闇の全てが女神の半分とします。また、女神の半分を求める者たちが正義の剣で人を傷つけ、人の自由を奪い、女神の真実を隠すともしています。
女神の「自分を知りたい」という反省は闇だということですが、なぜこのような結果を生み出すのでしょうか。
ここで言及されている主人公が戦ってきた闇というのは主人公が戦ってきたモンスターやボスはだいたい含まれると思います。特に女神の闇の手掛かりは三つあるメインストーリーでのボスたちにあるのではないでしょうか。
反省がもたらす強烈な「自分」というところに闇があるように思われます。
ドラゴンキラー編のボスは竜帝ティアマットです。ティアマットは全ての生命を自らの糧として取り込もうとしています。そのために主人公とラルクの協力でマナストーンを手に入れ、知恵のドラゴンとして復活を遂げます。
この強烈な自我と一方的な獲得という精神は世界に許容されないものです。この生命の絆、マナ同士あるべき姿を無視した「自分」がティアマットの闇ではないでしょうか。
珠魅編(宝石泥棒編)のボスで一応最後に戦うのは宝石王です。宝石王は自分の中で全てを一つにするというティアマットと似た方法を取ります。
ただここでの闇は珠魅たちが友愛の種族という「自分」を見失っていたことではないでしょうか。自らの種族に閉じこもった珠魅が珠魅自身を殺して回る宝石泥棒という闇を生みました。
エスカデ編のボスはアーウィンです。人間と悪魔の狭間を歩むアーウィンは自らの生まれた意味を探しています。女神から人間が受け継いだ反省を悪魔のアーウィンが行います。
その結果が世界の破滅を望む「自分」の発見でした。
ここでの反省はいずれも孤独な知的行為であって、他者との繋がりや絆を否定するところからスタートしています。自分について考えることで逆に自分が本来持っていたはずの世界や他者との繋がりを見失っています。
それどころか自分自身を求めて自分自身も失っています。ティアマットは本来世界を守護する知恵のドラゴンでしたし、宝石泥棒は珠魅を守りたいという心を持っていました。アーウィンが世界の破滅にまで辿り着くのもただの悪魔ではなく人間でもあるからでしょう。
これを解決するのが女神自身が名乗り、ポキールが「夢の檻の中へ」で勧めている愛ではないでしょうか。
マナの木の再生
マナの女神の闇は世界創造の発端という途方もないものです。そして、精神の持つ輝かしい能力であるはずの反省が逆に世界を乱す闇そのものなのです。
反省は分裂的なものです。反省の先には人間が自分自身を見失っていく落とし穴が待ち構えています。
ファ・ディールの危機にはいつも邪悪な存在の出現と共に乱れた波動としてマナの循環は乱れ、マナの木に裂け目が生じる、次元の断層が生まれる、転生した天使が自らの本質を忘れるといった統一の破壊、分裂があります。
しかも、人間は女神の反省を受け継いでいるために簡単には女神の闇を抜け出すことができません。主人公はこれにどのように対峙するのでしょうか。
どこかで反省が生み出した自分と世界の分裂を再生させるもの、循環や共鳴といったマナの力に近い絆や繋がり、愛はないのでしょうか。
ところでオープニングの女神の語りかけの中では女神から離れていった人間が無限の業から目を背けて小さな争いに胸を痛めている現状が語られています。
ここでの業というのはなんでしょうか。これを業(ごう)と読めば女神の犯した反省という罪があり、その結果引き起こされている災いという意味になるでしょう。
女神が世界を創造して以来の巨大な闇と惨劇を目を向けずに今の小さな争いなどなんだというのか、というところでしょうか。
この読み方は今の世界の現状を憂いる意味になり、前後の平和の中での小さな争いとの対比になっています。
ただ、ここの業は業(わざ)と読むこともできます。こう読めば神の御業(みわざ)として女神の行った創造や奇跡といった美しい行為にも目を向けることができます。女神の闇に対して女神の光です。
この世界はこんなにも素晴らしいのにそれに目を向けずに小さな争いに埋没している現状からの脱出を急かしています。
この無限の業がどちらの意味なのかというのはどちらもありではないかと思います。
「聖剣伝説 Legend of Mana」は暗くてすっきりしないお話も多いゲームです。一方で自由や愛について高らかに謳い上げるゲームでもあります。
オープニングの最後は私を思い出して下さい、求めて下さい、私は全てを限りなく与えます、私は『愛』です、私を見つけ、私へと歩いてください、という女神の呼びかけです。反省の解決は同時に女神への回帰でもなければなりません。
オープニングの映像で大地からランドが次々に離れていってアーティファクトに変わるシーンがあります。これが分裂であり、愛を失ったファ・ディールの現状のイメージだと思われます。
主人公であるプレイヤーはというと、ゲームをプレイする中でこのアーティファクトを次々にワールド置いていってランドを渡り歩きます。アーティファクトと主人公のマナの共鳴が世界を広げます。
この行動、世界を広げて体験していくことが闇を生み出す反省に対するアンサーであり、大地から離れていく人間たちがマナの女神へと帰っていく方法ではないでしょうか。
ワールドマップ画面の左上にはマナの木が表示されています。最初は種の状態でランドを設置していくと成長して芽吹き、立派な木になっていきます。マナの聖域の設置の際にはここから光が出ています。
「夢の檻の中へ」はマナの聖域に繋がるアーティファクト「マナの剣」を手に入れるイベントなので、ゲームクリアには通らなければならないイベントです。この「夢の檻の中へ」の発生条件の一つはランドの出現数が18以上であることです。
「夢の檻の中へ」ではマイホームの草人が倒れます。神界へと向かおうとする草人は「あなたのイメージがこの子をラヴでいっぱいにした」から選ばれているのだそうです。
イメージがラヴ即ち愛でいっぱいにするというのはランドからランドへ主人公が渡っていくことで、マナの木が成長して同時に世界の再生も進んでいるということなのでしょう。
世界を回っていくことは失われているイメージや愛の力を取り戻すことです。
「つまるところキミは、闇を憎まなくていい」
「夢の檻の中へ」の条件はランドの出現数の他にもう一つ、メインストーリーのいずれかをクリアすることがあります。主人公が戦ってきた闇の全ては女神の闇でもあるので、ここで主人公は女神の闇と一度対峙していることになります。
そして、「マナ」でもまた女神の闇と戦うことになります。
闇と戦うことを主人公は定められています。
一方でマナの聖域のポキールは世界創造の最初に闇を置いた上で、「闇を憎まなくていい」と主人公に言います。戦う必要性はあるにも関わらず闇のことも捨てようとはしません。何故でしょうか。
このバランス感覚についてここでは見ていきたいです。
武器防具作成では装備品に八つの属性それぞれの属性レベルを上げて属性を与えることができます。その際のルールは非常に複雑で一言では言えないのですが、金と木、光と闇の属性に焦点を当てたいと思います。
金と木は相克の属性で金を上げると木が下がり、木を上げると金が下がるという性質を持ちます。ただし、この相克は光と闇の属性レベルが等しくない時にだけ発生します。
金を人間の文明、木を自然として考えると、武器防具作成のシステムは光と闇のバランスが崩れている時に文明と自然は対立しあうというファ・ディールのあり方を表しているのではないでしょうか。
(武器防具作成は複雑なので簡略化して説明しました。)
現在のファ・ディールは妖精を筆頭とした人間以外の種族、悪魔、セイレーン、珠魅といった種族が迫害されたり、人間と対立する世界です。
どこかで人間と自然は調和する必要があって、その鍵が光と闇のバランスにあるのではないでしょうか。
そもそも、ファ・ディールの世界創造は女神の闇、自分自身について知りたいという反省によって生まれました。創造は最初から闇を伴っていました。神話や歴史の中にはその闇に起因するような失敗に満ち溢れています。
しかし、女神は創造を後悔はしませんでした。自らの姿を知ってそれで世界を捨てることはなく、作られた被造物を愛したのです。それは一つにはこの多様で不揃いな世界に対する愛です。
闇の分裂に対して光の統合を表すように女神の周辺には草人がいます。草人は全体で意識を共有した生き物でココロを持ちません。植物は全体で繋がっていることからマナの木である女神とも繋がり、女神自身であるとも言えます。
しかし、女神の闇を受け継ぐ人間の理想は心を持たない草人ではなく、全知と個性を持った七賢人です。闇は分裂でありますが、それがイメージの力を呼び起こす全知と個性の元でもあるのです。
創造は自分と繋がったしもべである草人だけでなく、自分とは異なる存在である他者を生みました。
愛は他者に向けるものですから愛に他者はなくてはならないです。光も闇を必要としています。
女神は創造を後悔しないのは自分に対して他者を生んだということがまずあると思われます。反省は孤独ですが、創造者の孤独は他者を生みました。
起源が闇にあっても切り捨てられることなく残っていくのはファ・ディールの歴史では何度も起こってきたことです。そして、闇から生まれた存在が光をもたらしてもきました。
月神のフラミーの乱造は世界を破壊しましたが、世界の再生はこのフラミーたちが行いました。
妖精戦争の人間側の筆頭は大魔女アニスですが、妖精側の筆頭は七賢人アニュエラです。アニュエラはアニスの娘として生まれました。
アニュエラが生み出したアーティファクトや魔法楽器は元々は戦争の道具でしたが、世界を豊かにするものになりました。女神への道を歩いていく主人公はアーティファクト使いです。
生まれは闇でもマナに満ちたこの世界ではいつの間にか光になっていることもあるようです。
イメージの力である個性も光である愛も、闇から生まれたこの世界において生まれています。
再生した世界
マナの女神はマナの聖域で自らのことを光と闇であると名乗ると同時に永遠の創造、永遠の破壊、再生とも呼びます。そして、主人公はこの女神の闇と戦います。
主人公はイメージの力とアーティファクトを使って、この多様で闇に満ちた世界にマナの木の再生をもたらす存在です。マナの女神は主人公に闇の姿に打ち勝って英雄になること、女神を求める者たちに道を示すことが求めています。
オープニングでは人々は求めることを恐れていたのですが、マナの聖域に主人公が着く頃には女神を求める者がいます。ファ・ディールに大きな変化が既に訪れています。
マナの女神は植物に囲まれて水面のように月が映り込む中で戦いになります。その戦法もいくつかの姿で様々な武器と魔法を使い分ける主人公の鏡のようなもので、月の蝕と満月が強力な必殺技を起こします。
女神の姿はどれも人間と似ていてかつ植物の意匠も持ちます。創造主であるマナの女神は被造物である世界の住人と似ています。
こうして主人公がマナの女神を倒すと草人がマナの聖域に現れます。マナの木を治すために草人は世界中から集まり、マナの木は再生されます。
かつて女神作った世界から草人を通じて愛が送り返されているのではないでしょうか。ここからがエンディングになります。
こうして草人はいなくなりました。ニキータなんかは草人のいた場所を回って「一匹ガメとけばよかったにゃ」とぼやいています。草人が嫌いなはずのニキータですが、草人の言葉を思い起こしているようです。
ニキータはイメージの力なんて持たない普通の人ですが、主人公の示す道というのが少しは届いているでしょうか。最後にニキータはマイホームの主人公の自宅に入っていきます。まあ、ニキータは商売人ですから何か売り付けにきたのかもしれません。
そこからスタッフロールが続いて最後に草人のシーンがあります。豊かな自然の中で草人が若木を覗き込むように見て、ポンと消えます。
「聖剣伝説 Legend of Mana」は再生したファ・ディールを予感させて終わりです。その中には世界の創造に遡る反省と分裂に根差す深い闇がありました。しかし、イメージとマナでできたこの世界は同時に自由と愛という光も伴っています。
おわりに
今回はマナについてでした。
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