歯、咀嚼の比較解剖学から考える身体運動

食性と顔の形

生物の歯の形状は、いくつかの要因によって決定される。最も大きく関連する因子には食性が挙げられる。


例えば地面や木に生えている草を食む動物では口が大きく前方に突出している方が有利だろう。実際に、ウマやウシといった草食動物は口が前方に突出している。口の尖端には草を切り取る門歯が存在し、退化した犬歯が申し訳程度に並び、草をすりつぶすための発達した臼歯が口の奥に並ぶ。


もしウマが手を使う事ができたらどうだったであろうか?恐らく霊長類のように口は短くなっただろう。口で草を刈り取る代わりに手を使えば、門歯が前に突出する必要はなくなる。草食動物は走る事に手の全パラメーターを振り分けているが、失われた手の機能を補うために口を道具として用いているのである。


肉食動物はどうであろうか?ネコやトラは草食動物と比較して短い口を持つ。これは口を草に向けて伸ばす必要がないからであるが、同時に捕食や食餌行為時に手を使う事ができるからだ。手を使う事ができれば、食物自体を口に近づける事ができる。



猿達であれば、ブラキエーションする種やナックルウォークをする種はより「猿らしい」顔をしている。

 

そうした種はロコモーションという本来の役割から手が解放され、物体の操作や果物を掴むといったマニピュレーションに手が従事する。草を刈り取るのも、食餌を口に運ぶのも、手が担う。


このように、手が自由に扱えるようになればなるほど、口は短くなる。ヒトは短い口を持つ生物の代表であるが、近年では顎関節の狭小化により門歯が前方に突出している傾向が強くなっている。手が自由に使えるにも関わらず、口は突き出している。現代を生きるヒトは、進化が生み出してきた形態形成の法則から逸脱してしまっているのだろう。

デンタルバッテリーの意義


 魚類や多くの爬虫類の歯はデンタルバッテリーと呼ばれ、一生のうちに何度も生え変わる。哺乳類では一生に一度歯が生え変わるだけで、一度虫歯に悩まされると一生のお付き合いとなってしまうが、デンタルバッテリーを有する生物ではそんな心配は無縁なのだ。日々虫歯の心配をしなければいけない我々からしてみると、なんだか羨ましいように思えてしまう。

なぜ魚類や多くの爬虫類がデンタルバッテリーを採用しているのか?これは彼らの歯の機能から理由を説明する事ができる。哺乳類以外の生物は、咀嚼を行わない。これが、彼らの歯が一生生え変わる理由である。


我々哺乳類では、歯は咀嚼するための道具であるが、他の生物にとっての歯は、獲物を噛みちぎり攻撃するための「武器」である。武器が壊れたら戦えなくなり、それはすなわち「死」に直結する。そうした事態をさけるため、彼らの歯は壊れたらすぐに生え変わる。


ワニやサメは、巨大な前歯で獲物を捕らえるが、獲物が大きく一撃で飲み込めない場合は身体を回転させたり、横に大きく振り回して獲物の一部を千切りとる。この時、歯が頑強であると歯が折れるのに伴い自らの口内を損傷する可能性があるため、彼らの歯は容易に抜けるようにできている。


容易に抜けても大丈夫なように、そもそも歯の絶対数が多いし、新たなる歯が際限なく生えてくる。ちなみに、サメやワニの歯が抜けやすい構造的な理由として、歯根がない事が挙げられる。


歯根とは、歯槽に歯を安定させる文字通り「根」の部分を意味する。哺乳類や恐竜の歯には歯根が存在するが、こうした「根」があると折歯があった時に軟部組織以外の躯体に損傷が及んでしまう。そのため、デンタルバッテリーを有する生物は歯根を持たず、顎肉という軟部組織にのみ歯が付着している。


 余談ではあるが、我々哺乳類が持つ歯根は単に歯を安定させるためのものではない。歯根を覆うように存在するのが歯根膜である。歯根膜は非常に鋭敏な触覚を有しており、0.05mm程度の物体を噛む感触でさえ感知する事が可能である。粗大な力発揮を行う咬筋群と微細な凹凸を感知する歯根膜が協調する事で、口に含まれる物体に合わせた「咀嚼」を行う事が可能になっているのだ。もし歯根膜の触覚が鈍感であれば、我々は咬筋群のコントロールが困難になり、過剰な顎開閉によって容易に顎関節症になってしまうだろう。


また、食事を楽しむ時には味覚、嗅覚のみが関与するのではなく、食べ物の感触も重要な構成因子となる。歯根膜が機能しなくなる入れ歯方式は、食事に伴う触覚入力を減弱させる。入れ歯の方法等については歯科の専門家に譲るが、ドイツ式テレスコープ入れ歯では感覚器としての歯根膜の機能を保持しやすいと考えられる。

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「ヒトの本質」。比較動物学、進化生物学、人間発達学、運動学習、認知運動等の観点からエクササイズ、セラ…

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