目が見えなくなって10年が経過したので振り返る

はじめに

1月1日のめでたい雰囲気の中で記事を投稿しようと思ったら、大地震が発生したり飛行機が爆発炎上したりと全くめでたい雰囲気ではなくなってしまいました。様子を見ていたら月末になっていたので、このままではタイミングを失うと思って今投稿することに決めた次第です。

個人的な振り返りですので誰かに向けた記事ではありません。ネット上に公開しておけば、仮に元データが消えてしまってもどこかにアーカイブが残るだろうと考えて投稿しただけです。

本文

2024年で30歳になる。目が見えなくなると、歩道を進んでいるつもりが車道に出ていて車にはねられて死ぬとか、まだ電車が到着していないのに勘違いしてホームから踏み出して死ぬとか、あっさり死ぬ確率が飛躍的にアップする。そんなわけで、まず生き延びることができただけで人生の評価としては満点だと思っている。

幸い、目を除外すれば体の異常は見つかっていないので今後も健康を意地できるように努めたい。ただし、聴力検査に影響しない程度の小さな耳鳴りが続いている。これは放置して問題ないと医者から聞いている。とはいえ聴力を失うと人生がさらにハードモードになるので気にしないようにしているが、気にしないようにする行為そのものがストレスになって余計に気になるときもあるので人生は難しい。

2016年はアルバイト、2017年からはソフトウェアエンジニアの正社員として働いている。そして2023年の後半には転職をした。振り返ってみると、どの組織でも人に恵まれている。気が向いたら転職して新鮮に感じたことを別記事として書こうと思う。

今までの勤務先はすべてリモートで働いている。最初から希望してそうしたのではなく、流れに身をまかせていたらリモートワークすることになり、続けていたら良さに気がついた。そしてそのまま新型コロナウイルスのパンデミックに突入し今に至る。

リモートワークは自室にひとりで作業することになるから寂しい、なんて話を聞くこともあるけれど、オフィスで仕事をする場合も目が見えなければ周りの様子がわからない。これは永久セルフリモートワーク状態と言えるかもしれない。IT系は基本的に黙々と仕事する環境なので、視覚障害と相性は良い気がする。

上を見ればキリがないけれど、同年代の平均より稼げている。時代の波とソフトウェアをいじるのが好きな性分が偶然に重なって稼げているだけなので、うぬぼれるなよと自分に言い聞かせている。多くの人は収入が増えるほど横柄になるそうだけれど、私の場合は収入が増えるほど謙虚さが増している気がする。

どれくらい稼げているかというと、ほんの少しでも興味の湧いた書籍であれば躊躇なく購入できるくらい稼げている。電子書籍(具体的にはDRMフリーのEPUB)のおかげでソフトウェアエンジニアとして食えているといっても過言ではないし、体系的な知識を得たり広めたりする手段として書籍は最も適していると確信している。金額的には微々たるものかも知れないが、少しでも技術書の市場が維持されることに貢献できたら嬉しい。

ところで私の知る限り、DRMフリーのEPUBを販売しているのはオライリー・技術評論社・達人出版会だけなので、これら出版社の電子書籍は積極的に買い続けようと決めている。ちなみにオライリーは2024年から電子書籍の値上げが決定した。といっても、今まで無期限割引されていたのが元の値段に戻るだけなので今後も買い続ける方針に変わりない。

わずかとはいえ稼ぎに余裕ができたので結婚と子供について考えた。結婚するなら事情がわかっているもの同士、つまり視覚に障害がある者とで結婚するのが良いと考えた。しかし、そうすると視覚障害が健康な人より高い確率で遺伝する恐れがある。子供については結論が出ていない。結論は出ていないが先延ばしにできる期限は迫っている。

命を選別したいわけではないので説明する。生まれた後に事故や病気で目が見えなくなるのは仕方がない。未来を予知することはできないので、このパターンは受け入れるしかない。そして、このパターンは影響範囲が個人に閉じている点で救いがある。

問題は生まれる子供に障害があるかもしれないと把握しているパターン。幸せかどうかは人によって感じ方が異なるので障害の有無とは関係がない。しかし、本来必要のない不便を強いられるのは避けたいはず。生まれる前の子供に「これからの人生不便を強いられる恐れがありますが構いませんか?」と聞いて承諾を得られれば良いが、まだ生まれていないので尋ねようがない。

私の視覚障害は網膜色素変性症が原因だと診断されている。この病気は症状が現れるタイミングと症状が悪化するスピードにばらつきがあるので、運がよければ健康な人と変わりない人生を送ることができる。実際、中学生くらいまで私はデザイナーを目指してAdobe Flashを触っていたし、金を貯めてナナオのモニターを買おうと計画していた。しかし、この病気には今のところ有効な治療方法がなく、症状の悪化を遅らせる手段もない。都合よく引退後に症状が悪化してくれたら問題ないが、10代から20代で症状が悪化するとダメージが大きいことは嫌ほど経験している。

なにより、目が見えていたら体験できるはずの機会を奪うのは非常に心苦しい。百聞は一見にしかずと言ったりするけれど、自分の経験に照らし合わせると100倍どころではない。輸血が必要な怪我人にいくら心臓マッサージをしても効果がないのと同様に、目で見る体験は他で埋められないと思っている。

例えばJim Rootが演奏している黒いテレキャスたーを見た瞬間、あまりのかっこよさに電撃が走る体験は他で埋め合わせできない。ChatGPTのおかげで「男性がFender製のエレキギターを演奏しています。機種はテレキャスター、ボディの色は黒です。」のように画像認識させることはできるが、テキストデータとして情報を返されても心に響かない。

もちろん「子供がほしいの!!!誰に何を言われたって気にしない!!!」という方針も全く問題ない。後先を考えず突き進むことで道が開ける場合もあるし、めちゃくちゃな人生も他人からは充実した人生のように写るかもしれない。文章中の子供を任意のキーワードに置き換えても良い。欲があるのは悪いことではないと思うが、欲望を貫き通せるほど傲慢な人間になるのは難しいと思う。

一時期は目が見えなくてもできることを追求していたし、画面を見ることなく日々の業務がそれなりにこなせているのは、その成果だったりする。しかし、自力でできることが増えるほど、あるいは諦めることが増えるほど、健康だったらこんな苦労しないのにと虚しさが積み重なる。

最近はメンタルの虚しさストレージがMAXになりそうなので、容量を増やすか効率よく捨てる手段を探さなくてはと考えている。しかし、もし完全に目が見えるようになったら、今まで保管しておいた虚しさは、例えば諦めが再挑戦への動機に変換されるように、ポジティブかつ強力なエネルギー源になる。テクノロジーが加速してAGIが実現するとかしないとか騒がれる時代になったので、視力の完全回復は夢物語ではない。従って、抱えすぎると厄介だが、すべて捨てるのはもったいない。虚しさの扱い方が今後の人生を左右する鍵になると考えている。

おわりに

また10年後、次は2034年にふりかえりの記事を書く予定です。

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