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「私じゃない方がいい」

昨日のこと。7月に受けたストレスチェックの結果が帰ってきた。

産業医の診断が必要かも、だそうだ。(正確にはだったそうだ、か。)

それから2ヶ月経って、状況はいくらか改善している。けれども、あのときの自分は本当に生きていることで精一杯だった。

そんな私がなんとか騙し騙し1学期を終えた頃、

8月頭に、大学の後輩に自分の経験を話すことになった。終業日からたった数日しか経っていないのに、4月頭からの記憶も曖昧だったから、少しためらった。第一、こんなネガティブ人間が、こんな優秀でもなかった自分が、後輩に話すようなことってあるだろうか。話していいのだろうか。ためらったけれど、依頼されたからには、頑張ろう。そう思った。

自分を振り返り臨んだ会。

もう一人のスピーカーは同じ新卒教員。でも、自分の今が楽しくて嬉しい、と話していた。

始終あちらは「満足」、こちらは「現実は難しい」の話になっていた。

そのまま進む会の中、ひときわ印象的な質問があった。

「4月までに、準備する時間はありましたか。」

ああ、この質問は刺さるなあ、と思った。

あった、あったよ、あったじゃないか。

そうだよ、準備しておけばよかったじゃない。

担任のあれこれ、授業のあれこれ、教師一年目としての働き方、体調を崩さないための暮らし方、仕組み作り……。全部準備しておけば、こんなことにはならなかったんじゃないの?

思い返してみれば、実益的な本はなんとなくこれじゃいけないような気がして読めず、かと言って教材研究もしなかった。実現したい授業のイメージも、学級経営のイメージというものも、よく考えれば曖昧なままだった。

理由をつけようと思えば、自分が「周りの環境にそぐう形で自分の全てを形成しようとする癖」があったから、とか、環境がわからないままだとイメージできず、何もできなかったから、なんて言えると思うけれども、そんなもん、「怠惰」の一言で説明がつく。

「私じゃない方がいい」

今年度、私の中での流行語大賞受賞が決定しているこのワード。

人生においてもそう思う。

その質問をした後輩の子が、教師になったらどうだっただろう。

私とおんなじシチュエーションで、おんなじ仕事をしていたら、きっと、もっとうまくやるだろうな、この子は。

この子は私みたいにはならないだろうな。

やっぱり、私の経験談なんて、誰に対しても、ちっとも必要じゃなかっただろうな。

ごめんね。

そんな言葉ばかり頭の中に出てきて、一気に頑張って建てた自信が音を立てて崩れ落ちた。

それからというものの、その質問は時々出てきては、私の体を硬直させる。

その質問は、私の自己否定の材料になる。

私じゃなくてもいいじゃん。

なんで、私が努力して私を生きなきゃいけないの。

別にいいじゃん。

生きるべきは、私じゃない。


9月。1学期の頃を心配して保健の先生がお話に来てくださった。

あの例の流行語大賞の話をした。

保健の先生は自身の転職の話を交えながら、辞めたっていいんですよ、と話してくれた。

「ただ」

先生は、私の目を見て、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「でも、先生は、たった数ヶ月で子供達を満足させていました。居場所がなくて保健室に来ていたような子が、全然来室しなくなった。そして、笑顔でいる。それってすごいことですよ。」

嬉しさが駆け巡った。ああ、そうなんです、それだけは頑張ってきたんです。

全員に声をかけること、居場所がなくなりそうな子への配慮をすること、「うまくやる」よりも大切にしてきた。一見、できていないことばかりでも、私が一番したいことは他の人から見ても実現できていたんだ。

多分、私じゃなくてもいい。この仕事は、誰にでもできる。

でも、一人ひとりの子が、誰に相談していいか悩んだ時、なんとなく私を思い浮かべて欲しい。問題が解決しなくても、自分がここにいていいんだって思って欲しい。「これでもよいんだ」って思って欲しい。

そう思ってこの子たちに接することができることだけは、誰よりも自信をもとう。

未熟なことばかりでごめんね。だけど、私は、一対一であなたたちをまっすぐ見ることだけはできるから、それだけは、安心してね。

そうして明日も、「私じゃないほうがいい」への反論をさがしていく。

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