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この瞬間に感謝する

いつも marimo's JOURNAL を読んでくださりありがとうございます。

今日は、以前つけていた日記のお話をします。



2020年9月から翌年の2月まで「ありがとうの日記」と言うのをつけていた。

これは、いわゆる「感謝の日記」とか「感謝のノート」とか言われるものですが、その日一日ありがたかったこと、嬉しかったことを3個から10個ぐらいピックアップし、日記として書き記すと言うもので、作業的には極めて単純なのですが、これを続けていくことで次第に意識が好転していき、マイナス思考もなくなり、ひいては人生も良くなってくると言う。

ネット上でも一時あちこちで紹介されていたりしたので、実践されている方は結構いるんじゃないかと思います。


で、わたしも流れに乗って書き始めました。

最初のうちは「今日もご飯が美味しかった、ありがとう」「仕事が無事終わった、ありがとう」などの日常のこと、プラス「今日は誰それと会って楽しかった、ありがとう」「どこそこへ行って最高だった、ありがとう」など、その日にあった特別な出来事に対する感謝を綴っていたのですが、3ヶ月を過ぎたあたりからだんだん書く内容が定まってきました。

その日だけに起きたことよりも、あたりまえなこと、あって当然と思えることに対する感謝の気持ちの方が強くなってきました。

例えば

「自分の足で立って歩ける、ありがとう」
「雨風しのげる家がある、ありがとう」
「今日も猫たちが元気でいてくれた、ありがとう」など。

しまいには
「身体中の細胞さん、動いてくれてありがとう」までいった(笑)

そう言った内容ばかり書き記す日が続いたある日、はたと気がついた。

もうこの日記は終わりにしてもいいんじゃないか?

あたりまえなことが、毎日変わらずあたりまえにある。
それだけを「ありがたい」と感じれば、この日記は終わっていい気がした。

2020年9月からちょうど半年後の2月16日に書いた日記には、8個中5個が「あたりまえなことが、あたりまえに起きている」ことに対するありがとうで終わっている。


そして、この半年間で何があったかと言うと、次の仕事が見つかる前に前職場を退職(無謀)。その後、怒涛の面接を受け(登録した派遣会社10社)、間に伊勢神宮参拝をはさんで(こんなところで)新しい職場に務めはじめた時期とちょうど重なっている。


必然の動きと感じた。
当時はあまり気にしてなかったけど、環境が大きく変わっていく瞬間に、毎日無事に「あたりまえ」があることが不思議だったのです。

今だからわかる。一歩間違えば反対方向に行っていたこと。感謝することが災い転じて福となしてくれたこと。
「ありがとう」と言葉にすることは、光を形にする行為。

一日が無事終わることがありがたいのではなく、一瞬一瞬がかけがえのないありがたいものであること。
そしてそれに気づくこと。


明日はその延長線上に有る。

21歳でお空に戻っていった猫さん。毎日幸せを届けてくれた。ありがとうね。


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