お前の代わりなんていくらでもいる
向こうからは見えない透明な槍で一方的に若者を突き刺している。
が、その武器はずっと効果があるものではなくいずれ先が鈍ってしまう。
これまでそういった武器を持っていることを意識しておらずに戦っており、武器が効かなくなって相手にぶん殴られて初めて自分は下駄を履いていたのだと初めて自覚するわけだからなんと自分は愚かな存在かと思う。
と同時に、誰が勝とうが負けようが世界にとってはどうでも良いことも思い知らされて、自分の努力とは一体何だったのかとも感じる。
他人の立ち位置を奪うためなのか、蹴落とすためなのか、嘘をついて保身するためなのか、未来の芽を摘んで次世代の邪魔をするためなのか。
いくら美辞麗句を並べようが結局そういうことではないか。
確かに世のため人のためになったこともしたかもしれないが、それはそういった立ち位置にたまたま自分が居ただけの話であって、自分が居なければ他の人が代わりに価値提供をしていた。
果たしてそんな自分に何の意味があるのだろうか。
仮に今死んだとして悲しむ人も困る人も一応はいるだろう。
でも、悲しむ人はごくごく少数に限られているし、困るといってもトイレにトイレットペーパーがないようなものであり代わりの紙があれば十分なのである。
現に世界では今この瞬間でも沢山の人が亡くなっているが自分はそれを意識せずに生活している。
戦争や事故で何十人も死者が出たとしても、それぞれ意識を持った人として捉えているのではなく数字としてしか捉えていない。
自分が今死んだとしてもただ数字が1つ増えるだけではないか。
哲学をかじり始めた大学生のようなことを言っているが、これは形而上的に思索をして認識をしているのではなく、日々の1シーン1シーンで答え合わせをさせられているからダメージの大きさが全然違う。
もうこっちはお腹いっぱいなのにヤスリでガリガリと心が削られていく。
上や下を見ればいくらでも人はいて、自分は決して不遇まみれで世を呪っているわけではない。
たまたま運良く掴めたものにみっともなくしがみついて、さももっともらしいことを言いながら人の邪魔をしていることに気分が悪くなる。
善行をすることもあるが所詮は自慰行為に過ぎないし、その道徳的なポジションも誰かを押しのけて得ているに過ぎない。
恵まれたポジションや特権は実力そのものよりも運によって左右されるわけで、運によって左右されても問題ないということは、つまり不可欠なように見える人だって実際には代替可能なコモディティに過ぎないということだ。
自分は不遇を嘆いているわけではない。
むしろどっちかというと恵まれた生活は送れているだろうし、それに対しては感謝せねばならないだろう。
ただ、一度得てしまったものを失うのは怖くて怖くてたまらないから、運良く得られたものに対して詭弁を弄して正当性を主張し続けている。
そもそも既得権益を手にするにはいつどこにいるかが最重要なファクターであり、いくら魚釣りが上手かろうが魚がいないところで釣り糸を垂れていてもノーチャンスである。
でも、魚がいるかどうかというそもそもの問題は誰にも分からず、後付けであれこれもっともらしいことを言えば周りの人は信じる。
逆にもっともらしいことを言える状況であっても、そこに本当に魚がいるかどうかは別問題である。
そして、既得権益を得るには早くその場所にいることが肝要であり、それを突き詰めていくといかに早く出生したかの違いであり、さらに言うといつ親がセックスをしたかの違いに過ぎないではないか。
一般論としてもちろん時代が移り変わっていくにつれて、席は新しいものが増えていくというのはあるだろう。
しかし、新規参入者の増加と比例して席が増えているわけではなく、状況はどんどん渋くなっているように思われる。
既得権益を得たものとしてはノブレスオブリージュとして新たな席も用意すべきなんだろうが、自分自身の席を失うのが怖くてパイの拡大ではなく保身にばかり走っていて実にみっともない。
しかし、現世における富や名声も数十年も経って死ねば不要なものであり、最後はみんなただの骨ではないか。
そこまでわかっていながら何故こうもみっともなくしがみつく。
何故もっともらしい詭弁で周りを納得させようとする。
何故自分自身をも騙そうとする。
そうやって人それぞれが世界の中で無意味なブラウン運動を繰り返している過程でとてつもないイノベーションが稀に発生して人類全体の底上げとなる。
そう思い込んでやっていかないと発狂して絶命してしまいそうになる。
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