読みやすいからっておもしろいとは限らない

人に本をすすめるのは難しいことなので積極的にはしない。
でも何かの話の流れで「この本おもしろいですよ」などという際、相手が普段から読書に親しんでいる人でない場合に思わず使ってしまうのが「読みやすい」という表現だ。

でも「読みやすい」ってほめことばなのか?

そもそも読みやすいってなんだ。

自分が上記のようなシチュエーションで言ってしまうときは、堅苦しくなくて気軽に読めます、くらいの意味で言っていて、だから本当におもしろいから読んでみてよ!という気持ちがくっついている。
あまりぜひぜひと言うと却っていやになるだろうから「読みやすい」などと言ってしまうわけなのだ。長々とした説明も好まれないだろうし。

わかりやすい、ならもっと明瞭だ。
理解しやすい、複雑なことがらが簡潔にまとまっている、納得させてくれる、説得力がある…そんなことだ。
本のジャンルで言うなら小説やエッセイなどではなく、評論、実用書や専門書に使われるだろう。

小説のおもしろさにはいろいろあって、だからある作品のおもしろさを読んだことのない人に伝えるのは絶望的に難しい。
だから自分の「読みやすい」には、とにかく読んでくれ、という気持ちがある。
一種の説明放棄である。

自分がおもしろいと思った本の中で、でも人を選びそうだなというのも時々はある。
やたら長いとか文体に癖があるとかテーマが重すぎるとか登場人物が多いなとか。
相手によってなんとなくすすめる本を変えているのは不遜なようにも思うが、なるべくアクの少なそうな、でも自分が楽しめたものを読んでもらうことで、読んでよかったなと思ってもらいたいのである。

自分は、なんだかんだ言ってもあらゆる娯楽の中で一番面白いのは読書だと思っているので、よく読む人はともかく、たまにしか読まない人には「当たり」をひいてもらいたいと思う。あまり読まない人には、この本がつまらなかったら別のを読もう、とはなかなか思ってもらえないだろうから。

それで、「読みやすい」である。
テレビなどでおすすめ本紹介の場面に使われているのを見かけるが、人がこの言葉を使っているときは、「スラスラ読めました」くらいの意味かなと受け取っている。
自分でいう場合のことは前述したが、まあだいたい似たような感じだ。

「スラスラ読める」ということは、読む時の気持ちやスピードが停滞した箇所があまりないということだろうけど、それは、知らない言葉が少なかったということや、書いてあることの意味がよくわかって迷わなかった、という意味だろう。
でもよく考えたら、スラスラ読めたということとおもしろさにはあまり関係がない。スラスラ読めたけどおもしろくないということはザラにある。
確かにスラスラ読めることは気持ちがよい。あまり立ち止まることが多いとそのストーリーの中に入って行きにくくて、頭の中に雑念が湧いてきやすいから。

しかしそもそも知らない言葉の多寡は、その人の今までの言語体験の質と量に左右されるから、ある人はスラスラ読んだかもしれないが私は、というのが普通だ。
また、言葉は平易なのに難しくて複雑なこと書いてるな、ということもあるだろう。この場合、スラスラとは読めない。立ち止まり立ち止まり読むことになるだろう。それはそれで楽しいかもしれない。

時にあるのは、スラスラ読めて楽しい、と思いきやなんの歯応えもなくて平凡な作品だった、というやつだ。文体の工夫もなく、ありきたりなレトリックやご都合主義、あまりにも類型的な物語などで構成されていて、自分の中の手持ちのピースを簡単に合致させられるから「スラスラ読める」のである。
読んですらいないかもしれない。文字の上を視線がただ滑っていくだけの行為。
ただこの手の「平凡な作品」が、平凡さのバリエーションはそこそこあるので、ローテーションやミックスを駆使することで大量に生まれていたりもする。

もし私が作家で、自分の小説を「読みやすい」と評されたら、単純に喜びはしないだろう。
「どんなところが読みやすかったですか」と聞きたい。

でもまたいつか使いそう。

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