ルックバックを読んで 努力を続けるために必要なものは?

 こんにちは。りょうです。

 今更感ありますけど、藤野タツキ先生の「ルックバック」を読みました。なので感想、思ったことを書きます。「伏線のちりばめ方がすばらしい」「セリフなしで感情を表現するのがうまい」とかマンガならではの表現手法については正直あまり自分は詳しくないのでそれについては語れませんが、この本を読んでつい考えてしまったことがあります。それがタイトルにもあるとおり、「努力を続けるために必要なものは?」です。

ネタバレが多少ありますので、まだ未読の方はブラウザバックをお願いします。





個人的に、この漫画を読んで3つ思い浮かびました。

①自分は天才だと、才能があると思い込めること

 客観的に見たら才能がなかったとしても、自分は才能があると思い込めるか、いい意味で井戸の中の蛙状態になることができるか、これがまず大事だと思います。主人公の藤野は、田舎の小学校という狭い世界の中では「絵がうまいキャラ」として最初は周囲から認められていました。しかしすぐに同じ小学4年生で京本という自分よりもっと絵がうまい人の存在に気づくことになります。しかしここで自分が思ったのは、それでも最初、(この漫画の冒頭よりもっと前の時系列を含めて)藤野は自分の絵がうまいとホクホクすることができた期間があったということ。ここは見逃してはいけないと思いました。


②天才と努力はほぼイコールであることを知っていること

 たぶん、藤野と京本はこのことを意識してマンガを描き続けたわけではないと思います。でも彼女らを客観的に見ている僕たち読者は、これを知っていないといけないと思います。天才と努力はほぼイコールであることを。

 もう少し具体的にいうなら、天才とは、たとえ自分より実力のある人に出くわしたとしても、「あの人は才能があるから自分とは別人だ」と開き直ったり「なんであの人は自分より才能があるんだろう」と変に理屈を頭の中でこねくり回すこともなく、ただがむしゃらに努力し続けることができる人。こういう人を天才というんだと思います。

 マンガ内でも、最初の藤野と京本の邂逅は印象的ですね。藤野が京本に卒業証書を渡すために京本の家に入ったシーン。京本は、もう部屋の外にあふれるまで練習したマンガが山積みされていました。藤野と京本の小学生当時の努力量の差を見せつけられる、印象的なシーンですね。


③自分の頑張りや成果物を見てくれる人がいること

 これはわかりやすいと思います。自分の頑張りや成果物を見て、評価してくれる人がいないと、何事も継続はできません。例えばSNSなりブログで何かをものを書いたとしてもリアクションがゼロだと、本当に暖簾に腕押ししている気分になりますよね。

 マンガ内でも、藤野が小6でいったんマンガを描くのをやめたあと、もう一度マンガを描き始めるきっかけになりましたね。藤野は京本には絵のうまさで追いつけないと思っていたら、なんと京本は自分のマンガのファンであることを知ったこと。これを期にマンガをまた描き始めましたね。やっぱり自分を見てくれる人は必要だと思います。





余談

 いま自分は、Lonely Mountains Downhillというゲームにハマっています。このゲームはタイムの速さを求めて世界中のプレイヤーとタイムアタックするゲームなのですけど、このゲームをやりこんだおかげで上位勢(だいたいどのコースも世界トップ20・トップ30以内には食い込めるレベル)にはなれたと思っています。しかし、それでも最上位勢とはやっぱり実力の差を感じます。

 勉強や部活や趣味など自分の過去を振り返ってみても、才能を感じ、最上位勢に割り込める可能性が1%でも見え、youtubeやSNSなどを通じて自分のプレイを見てもらえる仲間がいるコンテンツ・物事に出会えたのは、正直このゲームが初めてです。もちろんこのゲームは勉強やスポーツや音楽などの世界と比べると競争の激しさはだいぶ控えめです。でも、自分の可能性の限界に届く未来が見えるこのゲームは、今後も続けていきたいと思っています。

 今回はここまでです。読んでいただきありがとうございました。

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