孤独についての見解

孤独だな。と思うときが増えた。
寂しいなと思って、とりあえず時間をとってくれそうな友人に連絡して、一週間を予定でいっぱいにするときがよくある。
友達と遊んでいる時は本当にその時だけを楽しんでいるのだけど、家に帰るとまた、ああ寂しいな。と思っている。

まだ22歳なのにこんなことを考えているということは、じゃあ10年後の32歳のときにはもっと絶望してるのかもしれないとか思ったり、いや、実はちゃんと信頼できる人と一緒に暮らしてるんじゃないかとか思ったりすることもあって、そんな考えが頭の中をぐるぐると回っている。

とはいうが、思い返せば2年前、大学2年の頃の自分も同じように思っていた。その時はさらに今のように実家暮らしではなく、5畳半で、隣人の声が基本筒抜けの建て付けの悪いアパートに暮らしていた。わたしはアルバイトと大学にだけ行き、それ以外の楽しみはまるでなく、アルバイトから帰って家のドアを閉めた瞬間に疲れて泣き崩れたり、池袋サンシャインシネマのレイトショーによく行って、今見たら全然号泣できないような映画で号泣したりしていた。

けれど、そのときの孤独感と、今の孤独感を比べたら、今の孤独感の方がはるかに強いと感じる。
同じく孤独だった大学2年の頃は、わたしはもっと保守的で、友達も数人しかいなかった。今と違って、気軽に誰かに遊びを誘うような性格ではなかったし、飲み会も好きではなかった。今と違って、アルバイトの子たちと仲良くすることもなかったし、サークルも辞めていた。予定は全然詰まっていなかったし、詰めようともしていなかったし、かといって、1人で楽しいと思ったこともなかった。
大学2年のころのわたしと、今のわたしの違いは多分、トロントに留学に行って、誰に対してもフレンドリーにいるようにマインドが変わったことだと思う。ちょっとしか関わりのなかった人でも気軽にご飯や遊びに誘い、相手だってそれに付き合ってくれる。りんちゃんはふっ軽だね。とか言われるようになった。きっとわたしの半生を見てきた人にとっては、驚くべきことかもしれない。
なのにどうして、わたしは今の方が孤独だと感じているのだろう。


人間は生まれたときから孤独だ。

なんてよく耳にする。確かにそうだと思う。
人間は1人で生まれて、1人で死ぬわけだから、そういったことで考えれば、確かに人間は生涯1人なわけだ。けれど、生まれたばかりの赤ん坊が、孤独だ。もう死んでしまいたい。とか、寂しいから、誰か遊んで。とか思うのだろうか。赤ん坊の場合、寂しい。とか孤独。とかよりも、お母さんがいない→怖い!どうしよ!といった感情の動きや、お母さんがいない→ご飯がないかも!みたいな感情の動き、または、お腹すいた!とか喉が渇いた!みたいなことで泣くわけであって、大人が感じるような”孤独感”を感じているとは思えない。
実際に、わたしは今、母親と妹と住んでいるわけだが、孤独感をひしひしと感じているわけで、単に母親や妹などの物質的な人間の存在は精神的な孤独を軽減させることに全く役立たない。と思う。

人間は確かに孤独なのだが、付け加えると、人間は自分とは異なる存在を知って、はじめて孤独になる。と思ったのはつい最近のことだ。
中学生くらいからつい最近まで、わたしは、
わたしのことを気にかける人などいない。
わたしのことを助けようと試みる人などこの世に存在しない。
私を抱きしめる人などこの世界のどこにもいない。と、思っていた。
高校生や大学生の時は、それが何かを頑張ることのモチベーションにもなっていた。
私はきっと、生涯孤独だから、私は私を自分で養うだけの努力と地位を得なければならない。と思って勉強し、物事に取り組んできた。それはいつも成功した。
贅沢な話だけれど、成功するから、私は死にたいと思っても死ねなかった。失敗したら死んで仕舞えばいいし、そうしたい。と思っているのだけど、成功してしまう。成功すると、死ぬのが勿体無いかもしれないという気分になって、死ぬチャンスが先送りになった。

けれど昨年、わたしのことを一瞬でも慈しむ人が存在したことを確認する機会があった。一時でも、そういう風に私を扱う人が存在することを確認してしまった。
私はそれで、そういう存在があるという事実に甘えたいと思うようになった。今まで孤独だった分、その孤独を少しでも埋めてくれる存在がいたということに感激し、それだけなら良かったのだけど、そういう存在が他にもいないかと探すようになった。
そういう存在に会いたいとか、そういう存在がまだ他にもいるかもしれないという、今まで持ったことのなかった期待を人生全体に持ってしまった。
わかりやすく言うと、これは新しい好物の発見などに似ている。
例えば、今まで一度もチョコレートを食べたことのない人が、チョコレートを与えられ、チョコレートの味を知る。味を知ると、その美味しさを忘れられなくなる。そして、もう一度それを食べたいと思って、色んな店を探す。
ギャンブルなんかもそう。パチンコの面白さを知らなかった人が、その面白さを知る。その人は週に2回、3回と回数を増やし、やがて開店前に列を成すようになる。

孤独も同じである。
孤独を感じていても、それを癒す存在がないとか、癒す存在があるとも思っていなかったときには、孤独感というのはそこまで強くならない。
しかし、本当はどこかにそんな存在があるかもしれないのに、自分が探し当てられない。という状況になると、それを探し当てたい。という感情でいっぱいになり、少しのことでも、そんな存在が私には欠けているから絶望したい。死にたい。などと悲観してしまうのだ。本当は、最初からそんな存在など期待してはいけないのにもかかわらず。
孤独を自覚したわたしは、最近色々なことをはじめた。教習所に通い、友人とギターを始め、本を読み、卒論を書き、時折、馴染みの友人と遊ぶことで満足しようと考えた。
孤独からの脱却に対する執着を捨てなければ、私は成長できず、成長できない私は人を愛せず、人を愛せない私は人に愛されることもない。というのがベースのロジックだが、これが果たして私に幸をもたらすかはわからない。
まとまりがなくなってきたので、この辺で終わりにするが、これを読んでいる方で、同じく孤独を感じている人がいたら、私に教えてほしい。とか思う。
孤独の正体を暴き、成敗し、その孤独と対峙する方法を見つけたとき、私たちはきっと、もう一つ高次の境地に着くことができると信じている。


10月11日、晴れ間が差してきました。

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