愛と美の優劣

物事には時に優劣が存在する。
例えば成績。これは優劣がある。
勉強して、テストを受けて、その結果が良かった人が優で、そうじゃない人は劣だ。
わかりやすい。

野球やサッカーのスポーツチームにも優劣がある。
決められたルールに則って試合をして、
そのルールに沿って多く点を稼いだ方、または
多くの試合でより多くの点を稼ぐチームは優で、
そうでないチームは劣だ。
これもわかりやすい。

私が中学生くらいのときに気づいて、
それからずっと不思議に思っていることがある。

愛や、美にも優劣が存在するということだ。

愛や美のその優劣について語る前に、
この読者の方が、私のアイデンティティを知らないといくらか話がこじれそうなので、先に言っておく。
私はAsexualである。
Asexualというのは、恋愛や性的な感情がわきづらい、分からないのような感覚を抱いている人のことを指す。
私はそのうちの1人だ。
だから今まで、私は彼氏を持ったことがないし、
彼女を持ったことがない。

Asexualのことを告げると、多くの人が勘違いをする。一番多いのは、
Asexualの人たちは愛することができない。というのだ。
私は今まで、こういう風に思う人間に多く会ってきた。そしてそれを恥ずかしげもなく私に告げてしまう人間に多く会ってきた。
君は恋をしたことがないから、愛を知らないだろう。
と言われたこともある。

私が思うに、この人たちは愚かだ。
実際、真実は全く逆である。
Asexualの愛は、性欲や主観的なジャッジから始まるようなものではなく、平等で博愛的だと言えるからだ。

私には、
多くの人が、無意識のうちに人を選別することは言うまでもない、ように見える。
それは定量的でなくても、
この人はこのくらいで扱っておけば良い。
この人は大切にしておきたい。
など人が他者をある程度区別してその扱い方に格差を持たせるようなことがあると思う。

私は他人との予定をよく失念される。
ごめんなさい忘れてました。
と言われて、時間を無駄にしたり、
誘った予定を突然断られたりする。

こういう時、私は、私がいかにそのジャッジから溢れるのかを実感する。
他人にとって、いかに自分が重要でないかを痛感する。
相手にとって、私がそのために使った時間を無駄にしたことはdon’t careな事象であるわけだから、
私はそういう場面になると自然に、
この相手は私を人間として少しも愛していないのだ。
と思う。
だから私は、基本的に人を誘うという行為が嫌いである。

恋を知らないから愛を知らないだろう。
は、これを言ったその人間が、愛を全て恋から来るものだと思っている何よりもの証拠であり、それは本当に虚しく恥ずかしいことだと言わざるを得ない。

そもそも、恋から来る愛は、愛の中ではたいして上位にいないように思うのは私だけだろうか。
あの子が可愛い、好き、優しくしたい、愛してる。
の愛は、
あの人が困っている、誰だか知らないけれど、優しくしよう、愛している。
の愛よりそんなに大きなものなのだろうか。
私は本当に不思議である。

テストや、スポーツの試合は、それを図る明確な指標がある。だから優劣がつく。
一方で愛を図る指標はない。
なのに、人間はその愛に優劣をつけている。
愛を向ける人に対しても、主観的な優劣をつける。
それは時々、この人は可愛くないから。とか、この人は自分の好きな見た目じゃないから。のような表層的な理由から始まることもあって、
このことが、いかに多くの若いものを傷つけているか、多くの見た目弱者を傷つけているかを、多くの人は知らない。
なぜなら、見た目弱者が傷つくことはdon’t careな事象であり、そこには人間としての愛すら向ける必要はないからだ。
(ちなみに、美についての優劣も、明確な指標がない、そうであるのに、あたかもそれがあるかのような認識をされている。表層的な美しさが、その人の全体的な美しさとされる気風はいまだに残っている。
そこには、美しい文字を書くことや、美しい言葉を使うこと、美しい立ち居振る舞いをすることは度外視される。)

私はこんな思いをすることが非常に多かった。
人を誘うと、私が何か下心があるのかもと思って、気持ち悪がる人もいた。私には、男も女も同じくらい面白い人間であるだけだ。

だから、私は基本的に、人の誘いを突然断ったり、
冷たくあしらったり、理由なく拒絶したりすることはない。

私にとっては、人間は人間としか捉えられない。
男も女も人間であるし、
親も妹も友人も、ただの人間に過ぎない。
そして私はその全員を愛している。
そこに性欲は入らないし、主観的なジャッジも入らない。だから、その一人ひとりに対する愛の向け方とその量はほぼ同量と言っていい。

よく、優しい。と比喩されるこの私の特徴は、
私が優しいというより、私がより、人を平等に見ているということで合点がいくかもしれない。
実際に私の友人には、他人に優しいと評価される人間が非常に多い。優しい人間はそれだけ平等である。

トロッコ問題という哲学の問題がある。
レバーを左に切ると5人死に、右に切ると1人死ぬ。
5人は他人で、右の1人はあなたの妻である。
のような問題だ。
私はこのレバーをどちらにきることにも葛藤しない。おそらくそのままハンドルを離して、レールの進む方にトロッコを進ませる。

一人ひとりはどのような立場であっても、
私にとっては全員人間であり、
そう思うとどちらも平等に死を免れる運命と受ける運命がもたらされる必要がある。と考える。

左の5人にも同様に妻や夫がいるわけで、
私が一緒に多くを過ごした人間を失う運命とその5人の多く過ごした人間が5人を失う運命は平等にもたらされねばならない。

愛や美に、人は優劣をつける。
それは無意識に行われ、人々はそれを何食わぬ顔で行う。この世に蔓延る、あまりにも冷徹な行為。

そのことはよく分かった。
そして、その社会的で全体的な価値観がどうやっても変わらないことも分かった。

しかし世の中には、あなたに劣をつけられたことを敏感に感じ取り、悲しんでいる人がおそらく存在する。
あなたのことを少しでも気にかけ、あなたに劣をつけられたことを悲しんでくれる人間を、少しだけ、
人間として愛してやることは出来ないか。

6月24日、ショパン展を見に行った帰りの電車。

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