【メモ 書きかけ】『行動の構造』メルロ=ポンティ[木田訳]

序文  両義性の哲学

ハイデガーという心身の二元論、即自と対自という[世界-内-存在]では説明できない、人間の在り方があるという。ハイデガーの論だと、先に"気分"というのがあるから、ある事象について「嫌だ」とか「嬉しい」とか思うのだと。しかし、メルロ=ポンティ曰く、サルトルの言うように、「痛い」というのは意識を超えて直感的に、形而上学的に存在するのではないかという。
〈意識〉と〈認識〉との同一視は現象学的には支持できないということになる。

したがって『行動の構造』は、自然的ではなく〈科学的〉な経験の水準に位置しており、そしてこの経験そのものが ーすなわち科学的探究のおかげで行動を構成していることが明らかになった事実の総体がー、科学がおのずから採用している存在論的パースペクティヴのなかでは理解できないものだということを、証明しようと努めているわけなのである(1)。

(1)科学者はここで、自分は存在論的背景なしに考えるのだ、と答えることはできないであろう。形而上学に従事していないと信ずるとか、そのように注意しようと思うということは、いつでも、存在論、しかも批判的ではない存在論にかかわりあうことなのである。それは、ちょうど「専門家」の政治が、政治学にたずさわることではないにしても、一つの政治学を欠くことはできず、それが時には最悪の政治学であることもあるようなものである。

p.13-14


序論

周知のようにワトソンにあっては、「内なる実在」としての意識の否定が、古典的二律背反に則して言えば生理学に有利な形で行われ、そして行動は反射と条件反射の総和に還元されるけれども、それら両反射のあいだには何の内的なつながりも認められていない。しかし、まさにこうした原子論的解釈は、すでに反射の理論においてさえも成り立たないのであって(第一章)、ましてや高等な行動の心理学においては、たとえそれが客観[主義]的な心理学であっても、成りたたないものであることは(第二章)、ゲシュタルト学説が証明した通りである。しかし、行動主義を通過することによって、少なくとも、心的実在ないし原因としての意識ではなく、〈構造としての意識〉を導き入れるという利益はある。そこで、その構造の意味と在り方を問わなくてはならないであろう(第三章)。

23-24

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