見出し画像

WAN 8/18(火)伊田久美子さんの投稿に対する疑問点・感想

 8/12(水)にWANに掲載された石上卯乃さんの投稿に対する8/18(火)付の伊田久美子さんの反論投稿を読んだ上での疑問点・感想を記録に残します。
 なお、私は研究者でもフェミニストでもなく、大学を卒業してから随分経ってしまっている一般女性です。そのため、学問的な作法には則っておらず、また、大御所の研究者の方には大変失礼な物言いもあるかと思いますが、一般女性の素朴な感想としてお読みいただければ幸いです。

※石上さんと伊田さんの投稿は以下のリンク先で読むことができます。

 まず、タイトルが「『女性に割り当てられた公的空間』とは何か」となっていますが、これは以前、TRA学者の声明に出てきた「女性ジェンダーに割り当てられた公的空間」とは意味や対象が異なるのかが気になりました。
 「女性」と「女性ジェンダー」、この2つにはどのような違いがあるのでしょうか。

 お茶の水女子大学へのトランスジェンダー学生受け入れをきっかけにSNSを中心に論争が起こっている。WANでも「トランス女性に対する差別と排除とに反対するフェミニストおよびジェンダー/セクシュアリティ研究者の声明」をはじめ特集記事を掲載してきた。私も賛同人の一人であるしかしツイッターをやらないので、ツイッター上での経緯をよく知っているわけではなく、この件について積極的には発言してこなかった。しかし今回投稿された石上氏の主張について、とりあえず思うことを書いてみたい。

 「ツイッターをやらない」けど、SNS(主にTwitter)での論争に対する研究者の声明には賛同した、というのがちょっと不思議でした。
 署名する以前から現在までの1年半以上の間、Twitter上でどのような意見を述べられてきたかを一切ご覧になっておらず、WANに掲載された研究者の声明や石上さんの投稿だけでこの問題を判断されるのはかなり困難ではないかな…と思います。

 この問題は、女性がかつての「男性専用スペース」で経験して来たことと類似しているからであり、その経験を思い出してみたいと思ったからである。また「排除ではない」と言いながら実際は極めて強い排除の意図が感じられることにも強い懸念を持つからである。

 今回WANに投稿された理由2点が述べられています。

 1点目に、この問題(身体が男性のままのトランス女性が女性専用スペースを利用すること)は「女性がかつての『男性専用スペース』で経験して来たこと」と類似している、とお考えのようですが、私は両者はかなり異なると思います(詳しくは後程述べます)。

 2点目の「『排除ではない』と言いながら実際は極めて強い排除の意図が感じられることにも強い懸念を持つから」については、「石上投稿のどの部分に『極めて強い排除の意図が感じられる』のか、具体的に示されていないように思います(どの箇所が相当するのかご存知の方がいらっしゃいましたらTwitterでご教示いただけると助かります)。

 女子大へのトランスジェンダーの入学それ自体には反対ではない、と投稿者は言っているようである。問題は「トイレ」「更衣室」「風呂」など身体のプライヴァシーが保全されるべきスペースであると述べている。しかしそもそも「女性専用スペース」問題は女子大だけにあるものではない。多くのトランスジェンダー当事者たちは性別二分法が厳密に適用される公共施設のプライベート領域で戸惑いながら生活してきたのである。ここでの「安心・安全」とは身体のプライヴァシーの保全であるとすれば、私たちの多様な身体はいずれも保全の対象である

 太線で示されている通り、「女性専用スペース問題」は女子大だけにあるものではなく、「安心・安全=身体のプライヴァシーの保全」の対象には「トランス女性以外の女性」も含まれるからこそ、問題になっているのだと思います。

 入学時に厳格な審査を行ってメンバーシップを付与する女子大と異なり、公共の女性専用スペースは子どもからお年寄りまで不特定多数の人が何の審査もなく使用します。今までの女性専用スペースのメンバーシップは「身体的に女性femaleであること」だったのではないでしょうか。少なくとも一般女性の多くはそう考えているはずです

 例えば日本の女湯では全裸で入浴しますが、それは「女性female同士だから」というお互いの了解のもとで成立していることであって、身体が男性maleの人はメンバーシップを有していないため、利用することはできません。

 今回、お茶の水女子大学のトランスジェンダー(以下、TG)学生受け入れを機に、公共の女性専用スペースにまで話が広がり、TG当事者というよりもアライ(TGを支援する人)や反差別活動家の男性達から「身体を問わず性自認・性表現に基づいて女性専用スペースを使用する権利がある」という主張が出てきたことが混乱のもとだった、と私は思います。

 一言で言うと「一女子大学内の決定事項を公共の女性専用スペースまで拡大適用しないでほしい、女性専用スペースの利用当事者である女性の声を無視して勝手に使用ルールを変更しないでほしい」という話だと思います。

 しかし投稿者の「女性の安心・安全」についての懸念は「性加害者がMtFに便乗する」可能性を想定する。そうした可能性からの「保全」とは結果としてMtFを「性加害者予備軍」とみなすことになりかねない。こうした言説から直ちに想起されるのは、アメリカ合衆国でアフリカ系アメリカ人が日常的に被る差別のことである。彼らの多くが「犯罪者」とみなされない様に身だしなみに気を遣い、生命の安全のために警察の目を引かない様気を配る日常を送っていることは、おそらくはMtFの多くの当事者の日常に共通するのではないだろうか。

 この太字部分は、かなり論理が飛躍しているように見えてしまいました。

 私の場合、TRA学者・活動家が「男女別スペースは性器で区分されたスペースではない」「身体が男性maleの人が女性専用スペースを使用しても法的に問題ない」などと発言することにより、「女性専用スペース」が有名無実化し、男性の侵入を拒めなくなり、安全性が低下することを危惧しています。これを「MtFを『性加害者予備軍』とみなすことになりかねない」とは言えないと考えます。

 後半でMtFの人々をアフリカ系アメリカ人に例えていますが、前述の通り「MtF=『性加害者予備軍』」とは言っていないため、この例えも当てはまらないと思います。また、もし仮に人種に例えるならば、男性からの暴力・差別に脅える女性こそが弱者の側に置かれるべきだと思います。

 そもそも公共施設は成人健常男性基準で作られており、女性は随分苦労してきた。公的施設でのプライベート領域のあり方には、施設において誰が正統なメンバーシップを認められているのか、また場所によってはどのようなメンバーが重視されているかまでもが現れている。温泉での男湯と女湯の時間制による入れ替えは今では当たり前になったが、行動する女たちの会の指摘以前には、広くて立派な男風呂に対して狭くて地味な女風呂が当たり前だった。平等にするには時間制での入れ替えをせざるを得ないほどの差が施設そのものに存在しているのである。私は幼少時に父親と一緒に銭湯や温泉の男湯に行くのが楽しみだった。「男性専用スペース」は広く立派で壁絵のレベルも高かったのだ。性別二分法が適用されない場合は男性が基準であり、適用される場合は、より条件の悪い方が女性専用スペースとして割り当てられてきたのである。つまり女性専用スペースとは、女性排除の結果として作られた付け足しの隔離スペースであり、歴史的には女性の安心安全のためだったとはいえない。

 前述の通り「女湯のメンバーシップ=身体が女性femaleであること」だと思いますが、公共の女性専用スペースと、かつて男性が独占していた高等教育機関とでは「メンバーシップ」の意味合いが大きく異なると思います(詳しくは後述します)。

 上記の太字部分「公共施設は成人健常男性基準で作られており、女性は随分苦労してきた」「性別二分法が適用されない場合は男性が基準であり、適用される場合は、より条件の悪い方が女性専用スペースとして割り当てられてきた」を読む限り、「性別二分法が適用される前の状態に戻したら男性が基準となり、女性は随分苦労するだろう」と容易に推測できるのに、なぜ「女性female専用スペース」を「身体が男性maleの人も使用してもいいスペース=実質的な男女共用スペース」にしようとするのでしょうか

 伊田さんも「今日女性用トイレはかなりの配慮が行き届く様になってきた」と後述されています。なぜ、苦労して手に入れた「配慮が行き届いた女性用トイレ」を男女共用の時代に巻き戻さなければいけないのか。女性専用スペースの問題に関心を持っている女性たちは、そう言っているのです。

 ちなみに、伊田さんが男湯を利用していた幼少期というのは今から60年くらい前の話だと思いますが、現在の銭湯・温泉は男女ともほぼ同じ大きさ・同じような設備になっていると思います(ネットで画像検索すれば多数出てきます)。

 私は、「行動する女たちの会」という団体を初めて知りましたが、その方々の努力のお陰で達成された公衆浴場の男女平等に感謝し、今後も維持していただきたいと思っています。

 伊田さんは、女湯の例をもとに「つまり女性専用スペースとは、女性排除の結果として作られた付け足しの隔離スペースであり、歴史的には女性の安心安全のためだったとはいえない」と主張されていますが、伊田さんより2〜3世代下の年齢の女性たちは、女湯などの女性専用スペースが「女性排除の結果として作られた付け足しの隔離スペース」だった時代を知りませんし、そのように認識していないと思います。

 参考までにアンケートをとってみましたが、多くの女性が「女性専用スペース=安心安全のためのスペース」と認識しています。

 江戸時代の銭湯は混浴でしたし、60年前の女湯は「女性排除の結果として作られた付け足しの隔離スペース」だったのかもしれません。しかし、女性の権利が軽視されていた時代にどのような扱われ方をしていたかよりも、いまを生きる女性たちが女性専用スペースに「安心・安全」を感じ、その維持を求めているということが最も重視されるべきではないでしょうか。せっかく手に入れた女性専用スペースを男女共用スペースに逆戻りさせる必要はないと私は思います。

 戦前は女性の入学を認めなかったが戦後に共学になったような学校は、1970年代に高校大学生活を送った世代にとってはまだ酷い環境だった。私自身、高校大学ともに、かつては男子校であった学校に通った。高校の40数名の学級に女子は7名しかいなかった。女子に制服はなかった。制服がないのは個人的には歓迎だったが、要するに正式メンバーとして認められていなかったのだ。入学式では同窓会長が祝辞で「男らしく」を連発するので、睨みつけていたら気がついて「あ、女は女らしくね」と追加した。半世紀前はこんな状態だった。 「ここはお前の来るところじゃない」という明示的暗示的メッセージにつきまとわれながら生きてきた女性は少なくないはずである。

 ここからは、投稿の冒頭で伊田さんが主張された「この問題は、女性がかつての『男性専用スペース』で経験して来たことと類似している」に繋がる話です。

 伊田さんは1970年代に高校大学生活を送られたとのことですが、1975年当時の四年制大学進学率は、以下の記事によると男性が40%強、女性が10%強、全体で30%弱であり、当時の女性の中ではごく一部のエリート女性だけに限られた経験だったと言えると思います。

 この排除のメッセージは施設そのものからも発せられる。大学の古い建物には女子トイレは大きな男子トイレの一角を仕切って設置されていた。比較的新しい建物にも女性トイレは本当に少なく、入学した直後は探し出すのに苦労した。この一応女性も入学できるようになった大学という場で女性は「付け足し」であって主人公ではないことを、トイレの状況は示していた。

 今から半世紀前、多くの高等教育機関が男性を基準として設計されていた時代に四年制大学に入学した伊田さんは、確かに多くの「排除のメッセージ」を受け取ったと思います。
 ただ、ここで出てくる女子トイレの問題は、男性が高等教育などの特権を独占していたことから派生する話であって、一般市民が使用する公衆トイレとは理由も状況も異なるのではないか?と推測します。

 1970年代当時の社会を実際に見ていないので分かりませんが、公衆トイレやデパートなどの女子トイレも「男子トイレの一角を仕切って設置されていた」のでしょうか。「排除のメッセージ」を受け取ったのは、当時の女性全体のうち1割強の一部のエリート女性だけで、残りの9割近い女性たちはまた別の認識(例えば「安心・安全)など)を持っていたのではないでしょうか。

 この点は、その時代を生きていない私には断定できませんが、お茶の水女子大学の学内ルールを公共の女性専用スペースに拡大適用できないように、進学できる女性が非常に限られていた1970年代の四年制大学と当時の女性専用スペースの話も同列には扱えないと思うのです。
 そして、いま問題になっているのは、個別の大学内の話ではなく、公共の女性専用スペースの話です。

 ちなみに、1993年に衆議院選挙で当選し国会議員となった野田聖子氏も当時を振り返って「トイレがきちんとなくて突貫工事で男性トイレにベニヤの板で間仕切りをして仮設女性トイレにしていた」「女性がいちゃいけないのかなってイメージだった」と述べています。

 伊田さんの学生時代の話と同様、高等教育や政治など男性が特権を掌握していた一部の世界では、トイレなどの施設においても「女性排除のメッセージ」が出されていたでしょう。

 しかし、だからこそ、女子トイレなどの女性専用スペースを増やして施設面でも男女平等を目指すべきであって、男女共用トイレを復活させることは、むしろ女性に排除のメッセージを送ることになると思います。

 そこに来る者としてどんな人々が想定されているかは、トイレのあり様に端的に示される。男しか想定されていなかった時代から今日女性用トイレにはかなりの配慮が行き届く様になってきた。子連れや車いす用、そして多目的トイレなど公共施設は多様な人々に開かれる様になってきたが、言うまでもなくその様な変化が自然に生じたのではない。排除された人々の声が社会に認識されるに到るまでには多大な継続的努力が積み重ねられている。トランスジェンダー学生の受け入れにあたっては、女子大側はトイレに限らず多くの配慮を行い準備をしてきたと思う。女子大はそもそも男性中心社会から排除されてきた女性が学ぶ場所として作られた。男性社会からはみ出た人々が集い学ぶ拠点としての女子大は多様な性のあり様に開かれた場として新しい段階へ向かおうとしている。多様な構成員のニーズに応えていく女子大の選択は、個人の事情や希望への理解と柔軟な対応を前提としてこそ可能なのであり、そうした努力を前提とした選択にエールを送りたい。女性運動もまた様々な議論を重ねながら、多様な性との連携を進めていきたいと思う。

 結論部分でなぜか女子大の話に縮小されてしまっていますが、石上さんの投稿では女子大内部のことは問題視していなかったので、今まで通り公共の女性専用スペースについて話したいと思います。

 上記太字部分で挙げられている子連れの人、車いすの人、多目的トイレを必要とする人のための施設が増設されたのと同様に、「トランスジェンダーの人々」の存在が世間に広く認知された今、彼らが利用しやすいトイレを増設する必要があるのではないでしょうか。男性基準だった社会に女性専用スペースの設置を求めたように、声を上げていけばいいと思います。

 具体的には「身体の性・性自認・性的指向・性表現を問わず、性別不問で誰でも使用できる個室タイプのオールジェンダートイレの増設」です。

【Transfender トランスジェンダー】 ※法務省サイトより
「身体の性」は男性でも「心の性」は女性というように、「身体の性」と「心の性」が一致しないため、「身体の性」に違和感を持つ人。「心の性」にそって生きたいと望む人も多く見られます。

 大学以外の公共空間における「TG排除のメッセージ」は「身体の性と心の性が一致しない人のためのトイレ・更衣室・浴場がない」ことなのですから、求められるべきは「心身の不一致を気にせず利用できる施設」であるはずです。TGだけでなくノンバイナリ(性自認が男性か女性かに二分できない人)もいるのですから。

 しかし、「身体の性」を無視して「性自認・性表現にそった女性専用スペースを使用する権利がある」「男女別スペースは性器で区分されたスペースではない」「身体が男性maleの人が女性専用スペースを使用しても法的に問題ない」などと主張する人が多数いたことで、「身体の性」で区分されている現行の女性専用スペースのルールを維持・存続させたい女性たちとの間で権利の対立が生じてしまいました。

 「排除のメッセージ」を出しているのは、彼らの主張する通り「シス(=非トランス)中心社会」である日本という国や法律、それに基づいた施設の方であり、「TERF」(トランス排除的ラディカルフェミニスト)のレッテルを貼られた女性たちではないはずです。

 現行法に則った女性専用スペースのルール存続を望む女性達を「差別主義者」扱いして攻撃するのではなく、「多様な性」に対応した「多様な施設」を増設することに力を注いでいただきたいです。

 現在、お茶の水女子大のTG受け入れは、大学内の話にとどまらず「性自認こそが性を決定づける重要な要素」「TGの法的性別変更のための新法案の提言」という段階まで到達しました。

 「法的性別の区分基準は身体の性か?それとも性自認(または性表現)か?」「女性専用スペースの運用をどうするべきか?」という重大な問題を有耶無耶にしたまま、ごく一部の人々で内々に決定するのではなく、当事者である女性たちの声にも耳を傾け、オープンに議論すべきだと、私は思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?