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Third place in myself

最近思うサードプレイス持論について書いた。

サードプレイスが大切

って言葉はだいぶ前から聞くことが多々ある。そもそもファースト、セカンドって何?って感じなので調べてみた。
ファーストプレイス:家/自宅
セカンドプレイス:自宅以外で長い時間過ごす場所(職場、学校)
サードプレイス:安心していられるor新たなやる気を生む交流のある場所

うん、そりゃ素敵だわ。家でも職場でもなんとなく居心地がよくないときは特に素敵な居場所。

だけどサードプレイスって難しい。人が集まれば興味が似通っていても目指すものが違う人も多いし、求めてるレベルも違ったりする。誰だれのやり方が気に食わないとか、自分の正当性を主張する集まりだってある。結構人疲れしませんか?サードプレイス。
(その時点でサードプレイスとして機能していないんでしょうけど)
例えば写真やってるコミュニティはわかりやすい。アートフォト、商業フォト、趣味で楽しみたい・・・方向性の違いでコミュニティがわかれるか、そんなお互いを受け入れあうかでグループが分かれている気がする。
そしてそこには技術があるか/センスがあるか、での口には出さない序列もある。グループ展企画が立ち上がると価値観のすれ違いから破綻するところもあると話を聞く。結局もどかしいコミュニティ。

そもそもファーストもセカンドも同じ構造なので人が集まれば避けられないことかもしれない。真のサードプレイスに出会うのは難しそう。

サードプレイスって誰が作るの?

時々サードプレイス作りが趣味のような方に会うことがある。たくさんのコミュニティに顔を出すバイタリティとコミュ力に溢れているという素敵な資質を持ってる方が多い。人見知りで好かれるタイプの性格ではない私には到底無理な芸当だ。
そして何故か昔から人の作ったイベントやコミュニティに便乗して我が物顔で参加するのが好きではなかった。なんならカバー曲も「お前オリジナルじゃないじゃん」って否定派だった時期もある。
もしかしたら参加したはいいけど自分がそこにマッチしない感覚を覚えることが多く、傷つきたくない気持ちがあったのかもしれない。

とはいえ自分は、アート関係・グラレコ関係・飲み仲間・・・とサードプレイス多めの人間にカウントされている側の人だとも客観的には思う。そんなコミュニティも物理的な距離には負けやすく、2年前の東京→鹿児島転勤で一度バッサリなくなってしまった気がする。

孤独は僕の親友さ

そんな私はアートをたしなむ程度には孤独をいつも抱えてきた気がするので、サードプレイスが近くになくても強かった。孤独は親友でいつも近くにいてくれる・・・そんなテーマで作品作りをしたこともある。そのせいか人生の大半を一人で何でもする傾向がある。大学受験は親の意見聞かなかったし、バックパッカーもやっちゃったし、グループ展示も一人で企画・準備・運営可能。
掃除洗濯食事と家事をこなし、家計簿つけて、仕事に出かけ、習い事もして、副業もやりながら優遇税制も自ら調べるし、入院準備も独りぼっち。最強だ。
鹿児島生活は東京と比べ、なぜか時間が有り余っていて、今まで見る習慣がなかったドラマを見たりK-POPを聞いたり、太極拳に加えて最近は総合格闘技ジムに通い始め、思ったより筋トレじゃなかったからとチョコザップにも通い始めた。
そんな生活が私に最近、悟りのように気づかせたことがある。「サードプレイスって自分の中に作れるじゃん。」

居場所ってコミュニティや場所だけではない

ひとりプロ過ぎて、ヒット・リー・ジョーンズに改名したいくらい。それはいいとして、自分の中に蓄積された経験やスキルって自分を安心させるし助けてくれません?
自分が選択してやってることなら頑張れません?
実際グループ展企画では仕事で培ったプロジェクトマネジメント力での推進ができたし、グラレコで対応したカンファレンスでの様々な考え方がUXデザインをやるときに自分を豊かにした。鹿児島に戻ってからダイエットのため三食全部手料理を続けているというコツコツ体験からくる自信が、今自分を総合格闘技ジムに通わせている。(俺は続けられる人間だと暗示をかけている)
もし、自分は家と会社の往復だけだ。サードプレイスなんてないと思っている人がいたら、自分の中に目を向けることをお勧めする。過去の自分があなたのサードプレイス。
コミュニティのパワーで何かをするのもいいけどやっぱり自分の中に確かなものを蓄積しないと、コミュニティの中で不信がられることもあるだろう。逆に損しそう。


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