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「じいちゃん」と「石ころ」と「感性」と。

アートって何だろう?

数年前までアートと言えば、難しいものだと思っていた。アートって言葉自体が何だか敷居が高くて鼻持ちならんと思っていた自分。そんな自分が、数年後にアートに魅了され、アートの楽しさを伝える側になっているとは誰が想像しただろうか。

私を魅了し、翻弄し、時に表情を変え、人生に大きな意味を与えてくれる存在。

アートはアートのみでは、この世に存在できない。アート作品があり、鑑賞者がいて、初めてアートは成り立つ。アート作品と鑑賞者の相互のコミュニケーション、この一連の流れをアートという。

この説明はとてもしっくりくる。

アートを見るだけじゃない、経験するものなのかもれない。


アートを経験するということ。

アート系の公演に行き、登壇者である美術評論家やキュレーターなどの話を聞くと、同じ作品を見ているにも関わらず、その深い洞察力と解釈に度肝を抜かれることがある。

視覚情報をきっかけに、表現技法や美術史はもちろん、広く深い教養を織り交ぜ、かつその人の個人的な経験をまるで色鮮やかな糸を紡ぐように、魅力的な解釈、作品からの気づきを提示してくれる。

見るという表現では事足りない、それは経験と表現したほうがしっくりくる。絵と対峙するということを一つの意味ある経験として血肉にしている印象を受ける。

一方自分は、その見方、解釈の軸を知ることで、アート作品と相対した際に、その轍を頼りにして作品とよりいっそ深く関わることが可能になる。美意識や感性の高い人の解釈を知るということはアート鑑賞をより味わい深いものにするのでオススメしたい。

感性を磨くということはつまり、観察力と解釈の軸、そして教養を深めることなんじゃないなかと思う。

何も知らずにサッカーを見るよりも、サッカーのルールを知り、サッカーを経験したほうが、よりサッカーの試合を深く楽しめるようになるように。

アート界の仙人、石ころを愛でる

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先日、久留米美術館で開催している熊谷守一の展示会を見にいった。


熊谷守一 いのちを見つめて


熊谷守一は日本の美術史において輝かしい名作を残した偉大な芸術家である。モリカズ様式と呼ばれるポップで平面的な表現は見ていて非常に心が踊る。色彩感覚もとても新鮮で、配色のバランスも気持ちいい。

シンプルな絵なので、これなら自分でも描けるんじゃないかと思い、キャンバスとアクリル絵の具などの画材を購入して、さっそく真似してみたところ、額がなくなるほど土下座したい気持ちになった。

全くもって神業なのである。

色の塗り方が、コンピューターのように正確で、自分で描いてみて初めて、果たして人間にあんなに精密に色を塗ることができるのか、とただただ驚愕したのだ。配色や構図についてもそうだ。自分の絵はとにかくきまりが悪い。見ていて気持ちが悪い、気持ち悪すぎて笑えてくるのである。

初見で目に馴染む、違和感がない、これがどんだけすごいことか改めて気付かれされた。

熊谷守一は仙人と皆から言われていたそうだが、あの人は本当に仙人だ。

そういえば、前に彼の映画を見たことがある。

モリのいる場所

守一は晩年、毎日、庭で虫を観察して過ごす日々を送っていた。彼のインタビュー動画の中で、守一は石ころを手にとって、「私にはこの石ころが非常に面白んですよ」と語っていた。確かに本当に楽しそうだった。

きっと彼にとって目の前の石ころは宝石のように意味のあるものに見えていたのかもしれない。

それはつまり守一の感性の高さを垣間見る一言だった。

感性を磨き、育むことはこの世界に彩りと驚きを見出すことなのかもしれない。

自分もアートの世界に足を突っ込むようになって初めて、花の美しさをより楽しめるようになったり、目の前の現象に意味を見出せるようになった気がする。

そしてその経験は確実に自分の心を豊かにしてくれているし、みんなを引きずり込みたい一心が今の自分を動かしている。

2019年はそんな想いを持って走った一年だった。

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